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命をみつめる①
はじめに・・・
「九死に一生を得る」という格言を読者のみなさんは、ご存じだろうか。
何度か命の危機に関わる体験をするとこの言葉の本当の意味がわかってくる。
身に染みてくる。
お医者さんから
「命がなくなってもおかしくない、もう少し遅かったら手遅れでした、もし、打ちどころが悪ければ…」
としつこく聞くと命の不思議さについて、いやでも考えてしまうのである。
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自己紹介
ここで、初めに少しだけ筆者について自己紹介をしておきたい。
脳性マヒで四肢に障害があり、福祉関係の仕事をしている。趣味は手相である。
過去に大きな手術を4回ほど経験している。
そのうち2回は成人してからである。
頸椎症と胆嚢炎の手術を受けた。
後はコンビニで転倒して扉の強化ガラスを頭でぶち壊し、病院に搬送された。
また、箱型のタクシーを降車中に後ろの車にクラクションを鳴らされ、驚いて転倒し、地面やブロックとキスをして救急外来を受診したりもした。
これらの体験をする前までは 自分の存在が嫌で心を病んでいた時期もあった。
いつの間にか人生の折り返し地点を過ぎてしまい、改めてこれらの体験をして 命の不思議について、運命、運勢、人生等について深く考えるようになったのである。
「九死に一生を得る」
筆者の知人や友人の中には、若くして黄泉(よみ)の国に旅立った人たちも多い。
幼子(おさなご)やパートナーを残し無念の思いで旅立つ方もいる。
このような差はなぜ起きるのだろうか。
そのようなことを考えると、「生きていることは奇跡の連続であり、当たり前ではない」ということに気付かされてしまうのである。
手術後に病院のベッドで痛みに耐えながら過ごしていると、生きていること、生かされていることの不思議さと意味を改めて考えさせられてしまうのである。
自分の意思とは関係なく、必然的に考えさせられてしまう、という表現が正解なのかもしれない。
消えたくて、消えたくて、どうしようもない時は上手く消えれない。
その一方でギリギリでこの世に踏みとどまることもある。
現世を生きる辛さと哀しさ、苦しさと、たった一つの命の重さや大切さに考え込んでしまう。
自分さえいなければ周りが幸せになるのではないか、と悩んでしまう人も多い。
自分の人生や運命、運勢等について悩むことは、命の継続が大前提である。
生命活動の維持なくして、運命も宿命も運勢もないのである。
命の輝きと苦しみは硬貨の裏と表のようなものであり、一方だけでは存在しない。
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命とは・・・
これから運勢や運命、宿命、言葉の持つ力等について様々な角度から読者のみなさんと共に考察していきたいと思うが、すべては命があることが前提である。
言葉や言霊(ことだま)、心理学、運命学、運勢学等を駆使(くし)して、 生きることの辛さを糧(かてに)にして命の輝きを取り戻し、生きることが全てである。
読者の方々と共に生きている、生かされている奇跡についてしっかりと考えてみたい。
すごく重い話しになるが、重要なことなのでお付き合いをお願いしたい。
私たち人間は地球上に生きる生物の中で、自然界の摂理を無視して自らの手で生命体としての活動に故意に終止符を打つことができる唯一の動物なのである。
その一方で物を作り出し、芸術や芸能、文化を創造し、歴史を紡(つむ)いできたのである。
もちろん、殺戮(さつりく)や破壊も飽きることなく、続けている。
しかし、このような全ての行為が命を繋ぎ、文化を生み、歴史なるものを紡ぎ出している。
「命」とは、摩訶不思議なものである。
命を扱う行為の代表は「医学」であるが、医学だけでは命は維持できない。
あらゆる活動が人類を継続させてきたのである。
良くも悪くも様々な奇跡を起こしてきたのである。
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