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新ゲッターロボとは「ゲッター」に抗う話である

※見出し画像は何も思いつかなかったので何の関係もないけど一応ゲッター関連の画像にしています。ゆるせ

 前回の記事のつづきというか、補足的な内容です。
 紹介ということでネタバレを極力省いた内容にした結果、「新ゲッターロボはゲッターロボ・サーガと対極の構造になった作品であるとちゃんと記述して欲しい」という熱い指摘を受けたのでこの場で追記する形にいたしました。

 話の都合上新ゲッターロボやゲッターロボ・サーガのネタバレを含み、なおかつ個人の見解も含んだ内容となっておりますのでゲッター線に浸かる覚悟を固めたかあるいはすでに手遅れの方のみお読みください。

 あと、私はゲッター線に好悪入り混じった感情を抱くアニメ『ゲッターロボアーク』肯定派の人間なので思想が合わないと感じたゲッター線中毒者は読まない方が心穏やかでいられると思います。

 私は偽書ゲッターロボダークネスの続きを待ち焦がれてやまない人間です。

始動編込みで全5巻!
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そもそも「ゲッター線」とは何か

 ゲッターロボを語る上で「ゲッター線」の存在は切っても切り離せない関係にあるのですが、そもそもゲッター線とは何なのか。

 ゲッター線はゲッターロボ・サーガ作中にて「宇宙線の一種」と説明されており、太古の時代にハチュウ人類が地底へ逃れる原因を作り、ハチュウ人類が去った後の地上で人類の進化を促した——と帝王ゴールが語っています。

 ここで重要なのは、ゲッター線が単なるエネルギーではなく「何かしらの意思を宿した存在」と考えられることです。
 その事実が明らかになるのが漫画版「ゲッターロボ號」であり、終盤で真ゲッターに搭乗した一文字號が無意識下の夢という形でゲッターの意思と対話する場面が設けられています。

石川賢『ゲッターロボ號』第28章
「進化の時」より引用

 この後も「ゲッター線の意思」が號達に語りかけるシーンがあり、なおかつ『真ゲッターロボ』以降の作品では直接対話することはなくともゲッター線が意思を持っているという前提で物語が描かれています。

 では、ゲッター線の意思は一体何を考えているのか?

 これについて、漫画版『ゲッターロボアーク』で巴武蔵司令官は以下のように語っています。

「今や人類はわかったのだ ゲッターエンペラーの存在があった時に!!
人類はゲッターという神に選ばれし宇宙唯一の生物だということがな」

「ゲッターはなぜ人類の進化を認めたのか…
それは…人類が宇宙を支配するために人類を選んだのだ」

 この言葉を信じるのであれば、ゲッター線は人類を全宇宙を喰らい尽くすほどの強大な存在に「進化」させることを望んでいる……と考えられます。

 現に漫画版『真ゲッターロボ』及び『ゲッターロボアーク』では人類とゲッターが宇宙を脅かす存在となった事実が提示されており、なおかつそのキーとなる「ゲッターエンペラー」は一度出現してしまった時点で過去に遡ってタイムパラドックスを起こしても消せないという発生=詰みに等しい反則級の存在です。

石川賢『真ゲッターロボ』第6章
「ドラゴン争奪act Ⅰ」より引用

 ゲッターエンペラーの存在を生み出してしまった以上、人類にはかつての恐竜帝国や百鬼帝国のような無慈悲な侵略者となる未来しか残されていないのか?
 もはや人類はいつか来たるゲッター地獄に向けて歩み続けるしかないのか?

 その可能性に対して、ひとつの反論を持ち出してきたのが『新ゲッターロボ』という作品です。

サーガを取り入れた、しかしてサーガとは違う「新ゲッターロボ」という作品

 前回の記事にて新ゲッターロボは『ゲッターロボ・サーガ』のエッセンスを濃く取り込んだ作品であると述べましたが、実際の所はサーガの要素を忠実に再現するのではなくまた独自の形に再構築した物語となっています。

 たとえば主人公の流竜馬・神隼人・武蔵坊弁慶という三人組からしてまずそうです。そもそもサーガには武蔵坊弁慶という人物はいないのですから。
 武蔵坊弁慶はサーガにおける巴武蔵と車弁慶という二人の人物をミックスした立ち位置のキャラクターですが、しかし「三号機乗りのムードメーカー」という役割以外はサーガとあまり被っていません。
 巴武蔵は漫画版『ゲッターロボ』終盤にて、車弁慶は漫画版『真ゲッターロボ』中盤で、仲間達のため――ひいては人類のためにゲッターに望みをかけて散っていくという壮絶な活躍を見せました。
 しかし、対する武蔵坊弁慶はどうか。一番わかりやすい違いとして挙げられるのは「死なない事」ですが、実はさらなるスタンスの違いがあります。

 それは「ゲッターに対するスタンス」です。
 サーガにおける巴武蔵も車弁慶もゲッターに希望を見出し命を懸けていましたが、武蔵坊弁慶は物語終盤においてゲッターという存在を危険視し、「あってはならないもの」と見なして破壊を試みます。
 明らかにサーガとは対照的な描かれ方をしているこの武蔵坊弁慶の立ち位置は、実はサーガにおけるとある人物の役割をそのまま演じている形になっているのです。

 その人物とは、先程ゲッター線の項目で名前を挙げた一文字號です。
 新ゲッターロボの終盤において武蔵坊弁慶がゲッターを破壊しようと単身格納庫に乗り込む場面は、まさしく漫画版『ゲッターロボ號』の終盤のシーンのオマージュなのです。
 ゲッターを危険視するに至る理由と破壊を試みようとした後の顛末などはサーガとはまた違った独自の物語が展開されていますが、「ゲッターという存在を危惧し破壊を試みるものの、仲間との対話や眼前に迫る脅威を前にして再びゲッターに乗り込む」という流れだけを見れば一文字號と同じ役回りを与えられているのがよくわかります。

石川賢『ゲッターロボ號』第28章
「進化の時」より引用

 新ゲッターロボという物語全体を通して見ると武蔵坊弁慶はサーガにおける巴武蔵・車弁慶の役割を担っておらず、それに近い立ち位置の人物はむしろ第1話の早乙女達人であると言えるのかもしれません。完成目前のゲッターを守るべく単身旧型機を駆って敵に挑み、最期はゲッターと竜馬達に望みを託し壮絶な戦死を遂げる第1話のラストはサーガの巴武蔵と重なる部分があります。

 そして、新ゲッターロボの全容を語る上で決して外せないのが「流竜馬の在り方」
 彼はゲッターと共に戦う運命を背負いながら、最後にはゲッターに抗うことを決意しています。

 そもそもゲッターロボ・サーガにおける流竜馬(以下”サーガ竜馬”と表記)は、一時期は一文字號と同様にゲッターというあまりにも強大すぎる力の危うさに気付いて早乙女研究所とゲッターから離れたものの、最終的にゲッターの意思に触れたことでゲッター線を受け入れその一部となったことがゲッターロボ號からアークまでの作品で描写されています。

 新ゲッターロボにおいては漫画版『真ゲッターロボ』のエピソード「未知との遭遇」が「地獄変」という回でアレンジを加えて取り入れられており、直後の「ひとり狼」では竜馬がゲッターロボを降りて早乙女研究所を離れるという真から號までのサーガ竜馬を意識した展開が描かれます。

 しかし、サーガ竜馬と違い『新ゲッターロボ』の流竜馬はゲッター線と共に進化することを受け入れるのではなく、「ゲッターと戦って勝つ」という選択を下しました。

 なぜこのような結末を下したか、という解釈は人によってさまざまに分かれるでしょうが、私はここにゲッターの「可能性」に対する解釈を見出しました。

ゲッターとは果たして神か悪魔か?

 ゲッター線の項において、ゲッターロボアークでは「人間はゲッターに選ばれた唯一の存在であり、ゲッター線は宇宙を支配させるために人類を進化させている」という旨の台詞があると触れました。
 では、果たしてこれこそが本当にゲッター線の意思なのか?
 ゲッター線とは人類のみを庇護し進化させようとする傲慢な神なのか?

 これに対しては、「事実だけ見ればそうであるが、本当にそうとも言えない」という反論もできます。

 その鍵があるのは漫画版『ゲッターロボ號』のクライマックスにあたるシーン。
 真ゲッター――ひいてはゲッター線と同化した一文字號、メシア・タイ―ル、流竜馬は剴や渓、そして早乙女博士達の存在をその中に感じ取りながら、地球を覆い尽くすあらゆる災禍を飲み込んで飛び立ちます。
 その軌道を追ったシュバイツァ博士が目にしたのは、ゲッターが降り立った火星で極地の氷が解け始め、徐々に水の惑星へと変わっていく様でした。

 さながら荒野に緑の種を撒くかのように、ゲッターは火星という惑星を生命が芽吹く土壌へと作り替えたのです。

 この結末は希望を感じさせるような演出と共に描き切られており、ゲッターロボ號単体ではゲッター線はすべてを喰らい尽くしかねない強大な力と、生命の起源でもあり命の海の化身に等しい存在というふたつの側面を備えたものであると読み取れます。

 では、ゲッターが人類を全宇宙の支配へ導く進化の悪魔となってしまったのは一体なぜなのか?
 私は当初支配という進化こそがゲッター線の意思自身の望みであると考えていましたが、アニメ『ゲッターロボアーク』を視聴し他者の考察や感想に触れることでひとつの解釈にたどり着きました。
「支配」を望んだのはゲッター線ではなく、人類自身なのではないか――と。

 ゲッターロボアークにおいて、ゲッターエンペラーが発生する以前に人類はすでに宇宙へ進出していたことが語られています。
 そして未曽有の大戦の中、強大な敵を前にして人類が滅亡の危機に瀕していた時、忘れ去られようとしていた太陽系からゲッターエンペラーが現れ、人類を勝利へ導いた――というのがゲッターの支配が広がりつつある未来における戦史なのですが、ここで重要なのが「人類が滅亡に瀕した時にゲッターエンペラーが現れた」という事実。
 あくまで可能性の話ではありますが、この時点においてゲッターエンペラーは人類の滅亡という非常事態に際し、生命を絶やさぬために現れたカウンター装置だったという考え方もできるのではないでしょうか。
 さながらゲッターロボ號終盤の真ゲッターのように、当初のゲッターエンペラー――ゲッター線は人類の生命の灯を絶やさぬために動いていたとしたら。
 そしてゲッターエンペラーによって命を繋ぎとめた人類が、「さらなる繁栄」として支配を求め、ゲッターエンペラーという力を利用したのなら。

 ゲッター線はあくまで「人類の存続・進化・繁栄」だけを考えており、そこに「支配」の意志を介在させたのが人間だとしたら。
 ゲッターが望む進化の定義を書き換えたのが、ほかでもない人間自身だと疑うだけの余地はあります。

 人類を危急存亡の秋にまで追い込んだ「敵」は、一切の降伏を受け入れず人類の細胞のひとかけらすらも根絶やしにするほどの苛烈な姿勢を取っていたと語られています。この恐るべき敵に対して、人類が同じ手段をもって対抗したとしたら。報復として、あるいはより優れた戦術のひとつとしてかつての仇敵を模倣したとしたら。現実における戦争の歴史を鑑みるに、ゲッターより先に人類自身がそれを選んだ可能性は否めません。
 無慈悲な破壊者としてのゲッターエンペラーは、人類自身のエゴが生み出した悪魔かもしれないのです。

石川賢『ゲッターロボアーク』第13章
「ゲッターエンペラー」より引用

 ならば、人類自身がそれを望んだ以上もはやこの未来は変えることはできないのか。人類による無慈悲な虐殺も全宇宙の支配も、止めることはできないのか。

 答えは「」。人類がいずれたどり着く絶望の未来を回避する術もあるのではないか――と提示されたのが『新ゲッターロボ』の流竜馬です。

「すべてがゲッターに取り込まれるわけじゃねえんだ!
弱い奴が取り込まれるんだ!」

「俺は気が変わったんだ!
ゲッターから逃れられねえならあえて乗ってやろうってな!
ゲッターに勝つためによ!」

 それぞれ最終話と11話において発せられたこの台詞群は、ゲッターによる進化の行き着く果てに抗う『新ゲッターロボ』の竜馬のスタンスを明確に表したものとなっています。

 そして最終話において、竜馬に語りかけるひとつの声――ゲッター線と同化した流竜馬か、あるいはゲッター線の意思そのものの声は、運命に抗う流竜馬の在り方を肯定するかのような発言をしています。「これはゲッターの行き着くひとつの姿に過ぎない」と。
 これはゲッター線は宇宙の支配者となる道だけを人類の進化として定めたのではなく、それ以外の進化の可能性も許容していると受け取れます。

 アニメ「ゲッターロボアーク」でもこの解釈に基づいたような展開が随所に散りばめられている点を見ると、これが川越監督自身のゲッター線の解釈なのかもしれません。

 いずれにせよ、人類はゲッター線と共に侵略者となる道を歩むしかないという未来予測に「待った」をかけたのが『新ゲッターロボ』という作品であると言えます。

おわりに

 ここまで長々と書き綴ってきましたが、ゲッター有識者の中にはここで「それって原作者の石川賢先生の解釈じゃなくてあなたと川越監督の解釈の話ですよね?」と異論を挟む方もいるかもしれません。

 そうです。半分は人の受け売りで半分は私の主観です。
 初めにそう書いたので受け入れられなければそれでいいです。
 私は私の解釈でいかせてもらう。

 無論、『ゲッターロボ・サーガ』と東映アニメーション版という源流を重んじる方々からすれば独自の解釈で繰り広げられるゲッターロボ論というものに反感を覚えることもあるでしょうが、私はそうした独自性も含めて「うんうん、それもまたゲッターだね」と肯定したい派閥の人間です。

 起源はひとつであっても、そこから多種多様な形で派生し進化していく。時には想像もつかない形で、予想を大きく裏切る形になることもある。そんな先の読めない面白さもまたゲッターロボの名を冠した作品群の面白さだと私は考えています。原作に忠実なサーガアニメが欲しくないと言えば嘘になりますが。

 以上、補足と呼ぶにはあまりにも冗長でなおかつ最後まで私的感情たっぷりの内容となってしまいましたが、最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。
 ものすごく疲れたので当分IQ3の記事しか書かないと思います。ゆるせ。









 もし完全初見の状態からここまで読み切ったニュービーがいるならお前は絶対ゲッター線に浸かる素質があるから黙って骨の髄までゲッター線を浴びろ。

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