マガジンのカバー画像

明智光秀 近江出身説

17
明智光秀が 近江 多賀 佐目の出身であるという事を前提に 今まで研究されてこなかった地域の伝書、多賀大社、本願寺番方 法蔵寺佐目道場、六角氏との関係など、マニアックに検証したいと… もっと読む
運営しているクリエイター

#近江出身説

G01-江侍聞伝録と近江の歴史と光秀

とにかく、気になって仕方がなかった、光秀の出自について書いてある一番古い文書(今の所)『江侍聞伝録 (ごうじもんでんろく)』。 やっと手に入れたました。釈文と原文。 ・釈文( 古文書の文字を現代の文字にしたもの) 「滋賀県地方史研究紀要 第2号~第3号」 滋賀県地方史研究家連絡会編 滋賀県立図書館 石川正知 1973~1974年 これは、出版され 図書館にありました。 ・原文(滋賀県立図書館)の写真。 こちらは、ずっと非公開でしたが、2020年12月に公開。やった! 滋

12.戦国最後の戦いの舞台裏

前回は、義昭上洛を機会に、信長がグイグイ近江に手を入れてきて、それに光秀と多賀がどう関係していたかを中心にお話しました。 1. 戦国時代、最後の「観音寺城の戦い」 すっかり、説明を忘れていましたが、そもそも、義昭を連れての信長の上洛というのは、既に将軍が決まってたのに、ムリクリに突っ込んだという話になります。どっちみち、三好三人衆であろが、信長であろうが、将軍はお飾りのつもりだったのですよね。  1568年(永禄11年)2月8日 足利義輝を暗殺した三好三人衆が、義輝・義昭

13.仏敵信長め!近江戦国山の道と光秀

上のトップの画像は、石山合戦がはじまる直前に、左女谷(佐目)道場に本願寺から届いた文書と、十兵衛屋敷跡から見える「陣屋の山」。白い三角あたりが「信長陣前桜」があったあたりかと思われます。 今回は、佐目と本願寺と光秀の関係を追いたいと思います。 1. 09.明智神社と、光秀近江出身説 これに続く話しを書こうと思って、色々とつなぎ合わせてきたら、13.まできてしまいました。 1575年 (天正3年) 越前、東大味の明智神社の伝承は、柴田勝家が一向一揆を鎮めるために、兵を送り

11.初登場の光秀と多賀と信長上洛

基本的に私のこの投稿の欠陥は、六角氏と明智家がつながっていたという仮定を元に書いていますし、そもそも、殆ど専門家の本などを読んでいないのと、戦国好きという訳ではなかったので、基礎的な事を全く知らず辻褄が合わない所も出てくるかもしれません。 又、光秀はじめ、地元にかかわる方はエコ贔屓しますし、近江出身説に無理やり持っていこうという深層心理も働いてしまう事をご理解の上(笑) 、温かくゆるやかな気持ちで読んで頂ければ、幸いです。 1.足利義輝 暗殺される1565年(永禄8年)

10.明智と六角と、忍者・多賀坊人誕生

前回 09.明智神社と、光秀近江出身説  では、光秀が生まれる前の佐目のポジションについてお話しました。 今回は、光秀の一生を理解する上で必要なバックボーンについてお話します。最初にお断りしておきますと、もちろん 「光秀が、近江の多賀の佐目」で育っていた という強引な視点と、光秀、近江守護六角氏、本願寺、地元土豪をエコ贔屓するのは言うまでもありません(笑) 1.近江守護 佐々木六角氏とは ドラマでは、どうしても信長・秀吉など天下とった、つまり近江を手に入れた人が主人公に

09.明智神社と、光秀近江出身説

なかなかnoteに書き込む余裕がなく、久しぶりになってしまいました。 〇公式 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会のwebサイト開設 〇所JAPANにて全国放送で 磯田先生に「黒歴史」と!  その他、イベント・メディア・活動報告 〇地元の伝承に特化したマニアックな冊子 発売  #『明智十兵衛光秀 謎多きルーツの迫る 多賀出身説!』 http://same-jubei.com/ HPから ご依頼頂けます。 明智光秀近江出身説 佐目十兵衛会の 各サイトは以下です。  ◆公式 ホ

明智光秀のWikipediaの記述が変わった!

何かと、日々お世話になっている『ウィキペディア(Wikipedia)』 もちろん、明智光秀公が佐目出身という古文書を見た時に検索しました。 今となっては、すっかり忘れてしまいましたが、佐目に関係する記事はほんの少し、脚注程度に載っている感じでした。でも、抹殺されずに書かれていて、とても安堵した事を覚えています。 昨夜、ふと気になる事があってGoogleで検索しました。と、言っても「明智光秀 + 〇〇」の○○が、マニアック過ぎて 自分のサイトやこのNOTEの記事が検索に引っ掛

05.更に古い、光秀「犬上衆旧き好しみある故」

04.明智光秀公の一番古い出自の文献 にて 『淡海温故録』は、貞享年間(1684-88) 『江侍伝聞録』は、寛文12年(1672) と、今のところは出自の一番古い伝承とお伝えしました。 因みに、 いわゆる作り話でありながら、後々色々な伝承に登場する『明智軍記』は、江戸時代中期の元禄初から15年(1688年~1702年)で、 質が高いと言われている『近江輿地志略』は、1734年成立なのだそうです。 この『近江輿地志略』の佐目村の所にも、『淡海温故録』に書かれていた事を、ズバ

04.明智光秀公の一番古い出自の文献

『淡海温故録』は、貞享年間(1684-88)に 江州白頭翁により書かれ、彦根井伊公へ献上された文献です。1582年が本能寺の変なので約100年後という事になりますが、明智光秀の代表的な伝記 高柳光寿『明智光秀』(1958)が 出自について採用した『綿考輯録(細川家記)』は、更に90年以上後の安永7年(1778)編さんされた文献なのだそうです。 『淡海温故録』の内容の特徴としては、郡別村別の記載形式で 地誌の体裁を取りながら、それぞれの地域における中世の土豪・地頭の家系、特に

03.光秀と十兵衛は、どんな関係?

2019年10月、滋賀県と多賀町の教育委員会文化財課の方々が「十兵衛屋敷跡」を見に来て下さり、私はというと、そこからバタバタと講座に引っ張り出され、地域(多賀町佐目)の皆さんは手弁当で「とりあえず、看板はいるわなぁ」と、張りきり出し、看板が出来たのが3月。Googleさんから許可も頂いて、つい先日マップに掲載して頂いたところです。 看板の後ろ、下あたりの緑の網は、鹿と猿よけ。山間部なので獣害がひどくて、人間がオリに入って畑をしています。(昼間や人がいる時は、ほぼ出て来ません