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IWC インヂュニア オートマティック 40 のレビュー兼備忘録


本noteについて


筆者が購入したIWC Ingenieur Automatic 40

 2023年に発表・発売されたIWCの時計「インヂュニア オートマティック 40」は発表当初それなりに話題となった。「ジェンタデザイン」の復活や特徴的な文字盤が好評であった一方、Cal. 32111を「自社製ムーブメント」と称することの是非や、156万円(当時)という高額な値段設定には否定的な意見が飛び交った。
 一方で、実際の「インヂュニア」の購入報告や使用感への言及は、SNS上や英語圏の時計フォーラム等でも殆ど見られない。そこで本時計を購入した立場として備忘録を兼ねてレビューを執筆することとした。

 本noteでは「インヂュニア」購入の背景の他、意匠と着用した際の使用感、精度、ブティックで伺ったサポート体制について示す。なお、以下単に「インヂュニア」と表記した際は「インヂュニア オートマティック 40」を指すものとする。
 所感は客観的な事実の後に書き両者を分けるよう心掛けるが、少なからず主観が入ることはご容赦いただきたい。

前書き または何故私は如何にして心配するのを止めず賛否ある時計を購入したか

 詳細は本文で述べるが、インヂュニアには不満は元より、長く使う道具としての不安や心配も抱いている。それでもインヂュニアを購入したのは「転職に成功し気分としては景気が良かったから」「懸念事項含めて面白そうだったから」である。
 決して手放しにお勧めできる時計ではない。同じ金額でより上質な仕上げが施されているか、優れたムーブメントを搭載している時計が得られるとも思っている。加えて私は元々ドレス系の時計が好きな身で、夏場に適する高防水性かつ金属ブレスの時計が欲しいと考え続けた選択の果てでインヂュニアを選んでおり、「ラグスポ界隈の常識」みたいな観点には疎い。しかし相応の面白さや魅力みたいなものはあるとも思えており、そこが伝えられたら何よりである。

1. 外装の仕様・意匠

 所謂ラグスポの先駆である「ジェンタデザイン」に該当するが、それらのメインストリームとは違った印象のある形状をしている。本節では全体的な意匠について紹介する。

1.1. ケース

 所謂ジェンタデザインに共通するラグと一体化したケースと広い面を持つベゼルを持つが、全体として曲面を多用している点がインヂュニアの特色といえる。例えば「ロイヤルオーク」はケース上面とラグに値する部分はそれぞれ平面を描く為ケースに「角」ができるが、インヂュニアはより大きなRで緩やかに繋がる。
 ベゼルは円錐を輪切りにしたような形状となっている。他の所謂「ラグスポ」でありがちな均一な反射が生じないのが特徴と言える。ベゼルを留める極小の六角ボルトはよく磨かれている。
 角部はケース裏側を除き大きめの面取りが施されている。面取りの鏡面に移る像は均質で歪みやダレはほぼ見られない。

一様な光が当たる状況でも「ビカッとした」反射は見られない。

 総じて「ラグスポとしては大人しい」印象を受ける。広い平面や鋭いエッジが少なくケースの反射もそれに準ずる。ラグスポのギラギラ感を求めていると少々物足りないかもしれないが、この塩梅が丁度良いと思える方も多いと思える(私もそうである)。

 また、ケースは側面から見ると紡錘形をしている。ラグ相当部分がケース下側に曲がっていない点が特異といえる。この形状故に(腕周りとブレスレットの駒の詰め方次第だが)着用するとケース下側が肌に埋まやすい。
 上記の構造故に、着用すると公称仕様10.7[mm]より更に薄い印象を受ける。実用上の厚さはドレスウォッチとされる各時計に並び、シャツの袖にも収まりやすく使いやすい。

ケース側面の様子。紡錘形でラグ相当部は下面方向への曲がりも見られない。
スクリューバックの底面は紡錘形をしている。

 ベゼルはRef. 1832等過去のジェンタデザインのそれらと異なり、ビス(六角ボルト)留めとなっている。過去の製品は意匠のアクセントにもなっている締結工具を差す窪みの位置に個体差があったが、本作は窪み部分をボルトの座繰り穴に変えている為個体ごとの「傾き」がない。
 印象としては端正であり、またボルト頭の磨きの質も注目に値するが、一方で将来的な固着は懸念事項といえる。

ベゼルの六角ボルトと座繰り穴。仕事など六角ボルトを使うこともある身としては、通常まず見られないサイズと緻密な磨きに魅力を感じる。

1.2. 文字盤

 私は"Aqua"文字盤を選んだ為、今回はこれに限ったレビューを行う。
 Aquaは青と緑の中間の色で、個人的には「ティールブルー」が最も腑に落ちる表現と感じる。web上で見かける写真やCGの発色は緑に寄ったものが多いが、本記事で用いている写真は青に寄りがちである。なお、本文字盤はデイト部分も同色となっている。
 文字盤の模様はドットが4x4で並ぶパターンと、横方向のバーが4本並ぶパターンが交互に並び市松模様状となり構成されている。角度によって反射の仕方が変わり表情が違って見えるが、総じてシックな色合いを保ち針やインデックスの銀白色を阻害するような反射は見られない。また、サンレイ仕上げ等も行われていない。

3時・9時側から文字盤を覗くとドットパターンの反射が際立つ。
12時側・6時側から覗くとバーが4本並ぶ部分が際立つ。

 ケース同様、文字盤もラグスポとしては大人しい印象に帰結する。一方でAqua文字盤は独特の発色が珍しく、特にシンプルな服装程目立つと感じる。トータルコーディネートを意識して着用するには少々難しい色かもしれない。

1.3. 針・インデックス

 針やインデックスはIWCで伝統的に用いられてきた形状を踏襲している。直接的な引用元はRef. 1832など過去のジェンタデザインのインヂュニアであろうが、60年代以前のモデルでも見られるスタイルである。
 針やインデックスは側面にバリが見られず特に針は面取りもされていて、鏡面の出方も均一である。「高級時計」とされる水準の仕上げは十分満たされているといえる。
 夜光塗料は暗所の視認性を確保するが、同時に針やインデックスの面にメリハリを与える効果も感じられる。蛍光色は淡い緑だが夜光塗料自体は白色となっている。

1.4. ブレスレット

 H型リンクのブレスレットは曲面を描くサテン仕上げで、これもRef. 1832などを踏襲した形状である。但しAqua文字盤の物のみ中央部が鏡面仕上げとなっている。また、側面部は目立つ広めの面取りがされている。サテン仕上げも面取りも質感はケースのそれと同様の仕上がりで強い一体感がある。
 バックル部は微調整機構の無い普通の観音開きとなっている。また、留め具(バックルを開く釦部分)が左右にはみ出す形状となっている。シンプルで汚れが溜まりにくい形状ではあるが、微調整できず腕に合わなかったり、留め具と腕の干渉が気になる人も少なくないかもしれない。

バックル部は鏡面仕上げで、一部にはペルラージュも施されている。
釦部分がはみ出す形状は人によっては感触が気になるかもしれない。

 また、中央部のパーツの裏側にあるボタンを押し込むことでブレスレット固定ピンが抜ける構造となっている。長さの調整が容易だが、一方で本体との固定は通常のバネ棒で行っており、頻繁な取り外しは想定されていない。何処か中途半端な印象を受けるが、時計本体に触れずバンドの長さ調整を行えるので、顧客の腕周りに合わせて調整する店員としてはありがたい仕様かもしれない。

2. ムーブメント

 ムーブメントのCal. 32111について議論は多いが、ここではインヂュニアの構成要素としてのレビューを行う。
 Cal. 32111は120時間という長期の駆動時間が特徴といえる。精度は公表されていないが自分の手持ちは平置きで+7s/day程度の歩度となっており、実際に進み量はこの程度が少し遅い程度である。竜頭を上に向けた姿勢でもほぼ同様だが、この場合巻き上げ量が少ない(金曜夜~日曜夜まで放置した程度)だと遅れる傾向が見える。
 長い駆動時間と安定した精度も相まって、頻繁な操作を必要としない使い勝手の良い時計という印象を受ける。但し、必要以上に駆動することによる摩耗の多さはデメリットとなり得る。
 針回しはかなりギア比が大きい、竜頭の回転に対して針の回転量が少ない傾向があるといえる。時刻合わせはしやすいが、月の始めにカレンダーを合わせる際には結構な手間を感じる。また針飛びする傾向も強い。

 なお、ムーブメント厚さは4.2mmとされる(Chronos日本版様などの記述より)。ETA2892-A2の3.6mmより6mmも厚いが、インヂュニアはこれを軟鉄インナーケースを含めて厚さ10.7mmのケースに収め、10気圧防水仕様を実現している。

 IWCの説明によれば、脱進機の部品がシリコン製で耐磁性能が高いとされている。ただし、ヒゲゼンマイは非シリコン(恐らくニヴァロックス)でここが磁気帯びすると精度は変動するし、そもそも磁気シールドがムーブに鎖交する磁場を防ぐインヂュニアにおいて、シリコン脱進機がどこまで意義を持っているかは不明瞭である。尤も比重が小さいシリコンは長時間駆動の実現において重要でその点で意義深い可能性もある。
 
 「自社製ムーブ」との自称に疑問符が残り、より手頃な時計と殆ど変わらないムーブ仕様は否定論の対象になるが、直径40mm、厚さ10.7mm、10気圧防水の5日巻の時計を実現できるムーブとして採用している、と捉えると決して悪くない所感を持つ。しかし時計本体の価格をもう少し抑えてほしい気持ちは否めない。

3. アフターサポート

 筆者はインヂュニアである。
 実際の所機電系の技術者、即ちIngenieurなのである。そんなわけで仕事で機械に触れることもあるのだが、運悪く部品のバリとインヂュニアが当たってしまい傷ができてしまった。レーザー溶接含む研磨で優れた再仕上げが可能とは聞いていたが、折角なのでIWCブティックでサポート体制の詳細を聴いてみることとした。

ベゼルの3~4時位置および竜頭ガードに傷を付けてしまった。

3.1. コンプリートサービスについて

 IWCの正規整備の標準が「コンプリートサービス」となる。分解整備に加えポリッシングサービス(後述)も行うサービスとなる。
 分解整備は消耗する部品の交換も含むが、一部の部品の交換は追加料金を要するとのことであった。何が標準で交換され何がそうでないかの内訳は不明となる。
 ポリッシングサービスは文字通りの研磨とサテン仕上げの再施工の他、レーザー溶接による傷埋めを含む。これにより深い傷を取る際のケースの痩せを防ぎ、新品とほぼ同等の仕上がりにできる、とされる。但し強い打痕などはレーザー溶接でも埋めきれない、とのお話も聞くことができた。
 料金は時計のムーブメントや仕様で変動する。インヂュニアは「マニュファクチュール」扱いで12万以上の金額となる(2024年7月現在)。優れたポリッシングサービスが付属することを踏まえれば妥当な値段という所感ではある。

3.2. ポリッシングサービスについて

 コンプリートサービスに付属するポリッシングサービスは、同じくレーザー溶接を含むものを単独で受けることもできる。時計ケースの材料の他、ブレスレットも対象となる為これの有無でも金額は変動する。インヂュニアの場合は46,000円程度となる。なお、傷の数や程度で料金は変動しない。
 納期は受注の状況にもよる筈だが、私の時計については「2週間程度」との説明を受けた。

3.3. 保証範囲の修理について

 IWCは製品を2年保証しているが、MyIWCへの登録で8年保証とすることが可能となる。
 保証期間内なら不具合が出た場合は無償での分解整備が行える。しかしこの修理はコンプリートサービスと異なり外装の研磨は行わない。また、保証期間内にコンプリートサービスを受けても保証は残る仕組みになっている。

4. 使用感

4.1. 長所

 端的に言うと「普段使いしやすい、馴染みやすいラグスポ」という印象を受ける。
 直径は40mmだが、広めのベゼル(風防部分は直径30mm程度)かつラグ相当部は非常に短い為、感覚的なサイズはより小さい。加えて上述したように「ギラギラ感」がなく存在を主張し過ぎない。重量感はあるが、H型リンクのブレスレットは構成するコマが少なく空隙も少ない故か、時計本体に重心が寄る感覚はない。
 特筆したいのは肌当たりの良さである。ケース・ブレスレット共に裏側がサテン仕上げで汗をかいても張り付きにくい。本記事の執筆時は2024年の8月だが、この時期に楽しめる時計として、実用品として非常に重宝している。またブレスレットはコマ数こそ少ないが腕の曲面に沿うには十分である。
 文字盤は光の当たり方で表情を変えるが総じて主張し過ぎず、針やインデックスより暗い色合いを保つ。故に視認性にも優れていると感じる。分針の先は尖っていてミニッツトラックに重なっている為、秒単位の読み取りや時刻合わせの不便もない。

4.2. 短所

 総じて傷がつきやすい形状といえる。風防・文字盤に対してケースが占める表面積が大きくいのは無論、風防がフラットである為、上面から物体が接近した際に風防が接触を肩代わりしにくい。
 また、特にブレスの鏡面に微細な傷が付きやすい。これはシャツの裾などに擦れるだけでも着くので防ぐのは不可能に近い。体感だが本体の面取り部より傷がつきやすいと感じる(製造時の加工硬化などが関わっているのだろう)。

ケースはIWCの内製とされるが、ブレスレットはフランスのサプライヤが製造している。
鏡面やサテン仕上げこそ本体と同様の質感だが、製造時の加工硬化や焼き鈍しの差は傷の付きやすさの差にも関わっていると推定される。

 ムーブメントは針飛びが生じる上に、時刻合わせ時の回転比率が過剰に大きく手間に感じる。100時間という長時間駆動は過剰で不要な摩耗が生じる原因とも捉えられるが、一方で前述の短所が生じる回数を減らす狙いもあるのでは、とも考えられる。
 ケースは傷の補修サービスこそ充実しているが、小径の六角ボルトで留めたベゼルは中長期的目線では固着が懸念される。将来的に分解時に折れたボルトやケースの交換が必要になる可能性は否定できない。

総評

 とにかく、総じて使い勝手が良い。決してフォーマルな場に向く時計ではないがスポーツウォッチとしては大人しく、それでいて存在感があり実用面でも優れる。充実したアフターサポートにも期待して、肩肘張らずに使っていきたい時計である。
 一方でムーブメント仕様の割に単価もランニングコストも高く気軽に勧められる時計とは思えない。少なくとも同価格でより上質と捉えられる時計は幾らでもある筈である。私自身、例えばグラスヒュッテ・オリジナルの「セネタ・エクセレンス」などはより低価格かつ上質と感じている(既に所有するパノリザーブとジャンルが被り、サイズ感も大振りに思え購入しなかった)。
 長文を書いておいて結局気軽に勧められないオチになるわけだが、現物を手に取って「これは良い」と思えた人には刺さる、そんな時計だとも思っている。本記事が手に取る切っ掛けになれば何よりと思う次第である。

半袖にも、長袖のドレスシャツにも馴染む勝手の良い時計である。
再三にわたり普遍的なラグスポと異なると述べたが、スポーツとドレスの要素を併せ持っている高付加価値な時計、という意味では正しく「ラグスポ」と言えよう。

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