いつまでも若々しいあの人はきっと・・・

先ほど、ご近所の奥様から、「どんどん若返っていきますねー、なんかズルい(笑)」と真顔&笑顔で言われました。

誉め言葉を言っても一銭のトクにもならない間柄なのでたぶんそうなのでしょうね。

確かにその実感はあります。

私の人生経験上、若く見える方って2通りあるのかな、と思います。

・苦労していない人

・好きなことをして暮らしている人

このふたつは似ているようで、実は天と地くらいの違いがあります。

一点目の「苦労していない人」というのは文字通り、「苦労せずとも生きられてしまっている方」という意味で、私からすれば「残念な方」、「不幸な方」という整理です。
別にその方に私が憑依した訳でもなんでもないので本当のところはわかりませんが、人生において食うに困らなかったり、過度のプレッシャーに置かれなかったり、数多くの老け込む要因・条件を見事にすり抜けて生きている方が世の中にはそれなりにいらっしゃると思います。これを意図的にやっている訳ではないのでしょうから凄いですが、全然羨ましくない(笑)。

顔や表情に「苦労」が出ないのです。ないから出る訳がない。私は「年輪がない人」と呼びます。会話すればわかりますよね、きっと。私の周りにこういう方はほぼおられないので会話する機会がないのですが(周りは苦労人ばかり、苦笑......)。

まあ、わかんないですけどね。あくまで想像です、確からしい想像。

二点目のほうはむしろ一点目と真逆です。私のイメージではその方の人生は苦労の連続です。ただ、自分がやりたいと心から思うことに出会え、それにチャレンジしているので、いい笑顔をしている、輝いているのです。
こういう人は自由を貫くために相当の苦労をし、数多くの犠牲を払っているはずです。収入も世間並より低いかもしれない。ですが瞳の輝きが違います。別に悟っている訳ではないのでしょうが、語り口がとても穏やかだったり、低姿勢だったり、一方で自分が夢中になっている事柄について語り始めると止まらなかったりします。ふと目を瞑ると幾人か頭の中に思い浮かびますね。今どうしてるかなぁ?

私の場合はそうですねぇ、そういう方に出会うチャンスを数多く得ることで人生の処し方を自然と見つめ直すことができ、気が付けば「自分らしさ」というものを取り戻しかけているところ、という感じがします。

前職には通算で16年間在籍していたので、課される職責は年々重くなりましたし、自分自身もそうあらねばならないと思っていました。
そういう環境の中で自然と息苦しくなっている自分自身には案外気付かないものなんですよね。周囲の皆も頑張っているし、これが当たり前!とどんどんストイックになっていく。
あの当時の私はそれなりに活躍し、結果も出していましたが、「好きなことをして暮らしている人」からするとまったく魅力的には映っていなかったでしょうね。
何というか「単細胞生物」ですからね、できれば接触を避けたい感じ(笑)。

それが「事故」で(笑)、1年半前に盟友から「手を貸してほしい」と請われ、半年間悩んだ挙句に移籍した訳です。
決して楽ではない、「答え」のないミッションで何度も何度もローリングした挙句にゼロクリアして、時には自分を見失いかける時もありましたよ。
でもね、「純粋に好きだからやってる」メンバーにジョインしたのは私にとって非常に有意義なことでした。
そして自分のチームメンバーだけではなく、他社、特に国内外のスタートアップ(ユニコーン候補)のファウンダーやCxOと会うと、「何こいつら途轍もないプレッシャーを楽しんでるんだ!」と顔には出しませんが「ありえねー、すげー」と思っていました。それが一回りどころか私が成人した頃にオギャーと生まれたような連中がやっている訳ですから、もー嫌になりますわな(笑)。

俺の人生ってなんだったん?みたいな、苦笑......

でも幸せなことに「まだ遅くない」とあるとき気付く訳です。そういう環境下で仕事?していると、アタマが柔軟になってきます。
年齢なんて関係ないし、今までのある種「官僚主義的」な組織での経験も、そこをくぐってきていない若者たちからすると財産だったりする訳です。
そして組織の縛りとかそういうこととまったく無縁な職場だったので、本当に純粋に「自分のミッション≒チームの行く末」を考える日々が続きました。
「答えがない問い」が嫌いか好きかですよね。私は幸いなことに後者でした。高校生の頃は受験勉強オタクだったのでどうかと思ったのですが、社会人として生きてきた間に少しずつ自分自身の中でも変化があったのではないかと思います。

答えは自分でつくるもの。間違っていたら、また解き直せばよい。

そういう日々を送っていると、「束縛だらけのミドルのおじさん」から「全力で生きる自由人」に変身することができたのです。

語る内容も変わりますし、物事の着眼点や思考も変わります。他者の意見の受け止め方も変わります。人に対する接し方も変わります、いい意味で熱くなります。
なぜか服装も(オシャレかどうか知りませんが)「自由」になります(シリコンバレーに何度か行ったのは大きかったですね)。
そして(服装だけでない)見た目もきっと若返っています。
笑顔と真剣な表情が行き来します。瞳がキラキラ、そしてときにギラギラします。
行動も自由になります。その気になれば徹夜も辞さないし、でも「今日は煮詰まった」と思えばさくっと帰ります。

大企業にいると、ここ数年間の「働き方改革」的な話で、例えばGoogleの会議術とかいって、時間のかけ方や会議室の備品類などを参考にし、「Googleもどき会議」をして悦に入っているパターンが割とあります。
ああいうことにも弊害があると個人的には思っていまして、例えば「どの会議も30分以内」とか、そういう制約のかけ方はなんかおかしいんですよ。「自然」じゃない。
議論する内容に応じて、「このテーマは10分間」、「これは定例的に1時間で共有」、はたまた「この話はディープだからエンドレスね」とか。柔軟であるべき。

目的と行為が一致してくると変なことにストレスを感じなくなるのです。

ニ、三年前に体内時計をもとに司会進行し、ぴったり終わってプロジェクトメンバーの貴重な時間を死守した......とホッとしていた自分が恥ずかしいです。アホ丸出し。
そういう意味でも、所属している組織や一緒に働くメンバーが非常に重要になってくるのです。
自分自身がそういう意識づけができていて、なおかつ、それに共感する人がメンバーでないと成立しないことだから。

そんな生活をここ1年弱続ける中で、自分のミッションというのが、今の組織におけるミッションではなくて、人生もしくは社会におけるミッションに置き換わっていったのです。
そうしたときに、「今の立ち位置はちょっと違うぞ」と気付くことができました。
という訳で、今の組織をもうすぐ卒業するのですが、「自分がどうしてこの世界に生まれてきたのか、存在しているのか」という根源的な問いに対して、あるレベルで答えを出せるタイミングで向き合えた、ということは非常に大きかったです。

この先またどうもがくのか、まったく予想が付きません。今はただこの1年間の自分の変化を純粋に喜び、かつ楽しみ、そして感謝しています。

と書きながら支離滅裂になってきたので〆にしますが、なんか「娑婆に出る」の最終章を書いちゃった感じですね。

ご近所さんがいらんこと言うから・・・(笑)。



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