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ひとときの住処

以前住んでいた場所のことを思い出す機会があったので書こうという気になった。
ある休日の午前中に、私が買い物から帰ってきて玄関前で鍵を開けようとしていたとき、見たことのない男性が私の方まで突進してきた。実際にはぶつかっていないが、意気揚々と私の右肩すれすれまで寄ってきた。パーソナルスペースを考慮しないのは前のめりな営業でも起こることがあるけれど、彼の場合は自身の部屋番号を告げマンションの同じ階の住人であると朗らかに語りかけてきた。
私は休日にのんびりした気分でいたところに営業モードのような人が近づいてきて一気にめんどうになりながらも、今まで一度も見かけたことがないような気がする顔を眺めた。
彼の言い分は「あなたの部屋の隣の人の足音やドアの開け閉めがうるさくないか」ということで、なんとなく、私にも同意を求めたくてうずうずしているという印象だった。私は、確かにそれもそうだが、あなたのその急な接近の仕方もなかなか不快だよと感じながらなんと彼に伝えようかと思案していた。
私はこのことを話すためだけに急スピードで接近してきた彼に対して、足音やドアの開け閉めが大きい住人よりも何か厄介なものを感じていた。足音は通り過ぎれば終わりで動きがわかりやすいものだけど、この物音を気にする彼の場合はどこからともなく急接近してきた感覚が奇妙だったのだ。
なんとなく、この人と近づきになるとその後の集合住居生活が息苦しいものになる予感がした。
私は「物音は、自分もいつのまにか立ててしまうこともあるだろうし、うちのとなりの人だけが特別気になるという訳ではないような気がします」というようなことを彼に伝えた。すると彼は、あからさまにがっかりした顔をして
「わかりました。では、大家さんにはそう伝えます」と言ったので、私は「え?」と尋ねた。なんというか、彼と関わりがある住人にされてしまうのは困る。詳細を求めたところ、彼は私の隣部屋の人物の足音やドアの開け閉めの音のうるささについて大家に苦情を申し立てていたが、大家が「ほかの住人の方はなんと言っていますか?」と、1人の意見だけでは受け付けない回答だったらしく、彼は他の住人の同意見を求めていたようだ。
私も、隣の住民のドアの開け閉めなどは大きめだとは思うが、足音までは気にしていなかった。ほんとのことを言うと、ドアの大きな開閉音はマンションの部屋のどこかだというぐらいで、私は特別隣の住人だけを重視していなかった。
彼はなぜ、うちの隣の部屋の住人だけを特別視していたのだろう。足音からドアの開け閉めの音まですべてを煩わしく感じていたのだろうか。私は正直、マンションのあちこち、近隣のいろんな方向からあらゆる音が聞こえる日々の生活で、隣の住人の音だけを重視している訳ではなかったのだ。
私が隣人の物音に対してどっちつかずの回答をしたところ、急接近の姿勢の彼はやっと離れていったが、その後一度も廊下などで顔を合わせることはなかった。移動や物音に細心の注意を払って生活していたであろう彼、今でもあの人は同じマンションに住んでいるのだろうか。

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