あなたに出会わなければ(朝比奈みくる(大)のお話)

あなたに出会わなければ

 降り立つと、途端に、むわっとした熱気に包まれる。
 暑い。しかしどこかなつかしさを覚える暑さでもあった。季節は夏。あの頃の夏。自分がまだ高校生であった頃の、夏。
 時刻は夕方であったが、まだ日は落ちておらず、それほど暗くはなっていない。そのせいか、夕方ではあったが、気温はまだまだ高いようだった。熱気と、湿気と。じわりとにじんでくる汗を感じて、あたしは慌てて日陰を探して、そこに逃げ込んだ。日陰に入ると、途端に涼しい風が吹いてきて、あたしは思わず、ふぅ、と息をついた。
「やっぱり暑いなあ……」
 ぼやいてから、あたしは手に持っていた巾着袋の中からハンカチを取り出して、額や首元の汗をぬぐった。
 今日は七夕まつりの日だ。だから、今日のあたしは浴衣を着ている。この時代に来るときはほとんどブラウスにタイトスカートだったから、新鮮な気持ちである。と同時に、久々の浴衣ということもあって、少しばかり気恥ずかしさもある。長い髪も浴衣に合わせて結い上げているので、どこからどう見ても、夏祭りにやってきた一般人になっているはずだ。
 この時代にやってきたことには、実は大して意味はない。涼宮さんの件に関して、この日に何らかの介入をする必要はまるでなく、ただ単に――来たかったから、ということに他ならない。もちろん、過去の自分自身が、朝比奈みくるが存在しているこの時代の、それも多くの人が集まる場所に行くのは、大きなリスクがある。いくら見た目と年齢が違うと言っても、過去の自分を知る人間と出会ってしまったら非常にまずいことになる。自身の経験上、アクシデントが発生した記憶がないから大丈夫ではあろうが、時間というのはそんな簡単に考えられるものではない。しかしそれでも来たかったのは、あたしが、もう一度この時間の夏を体験したかったからだ。かつて過ごした夏。かつて過ごした時間、時代。その空気。
 彼に再び出会い、再び胸の奥で生じた想い。割り切ったはずの恋。たくさん泣いたあの恋を、あたしは思い出してしまったから。
 だからといってこんなことをしてもなんにもならないのはわかっている。けれども、あたしは少しでも、あの頃の自分に戻りたかった。彼の傍に居られたあの頃に戻りたかった。あの頃の空気に触れれば戻れるような気がして、あたしは、適当な理由をつけてこの時間にやってきた。それが本当に危険な行為だとは、わかっていても。
 確か、今日の彼は妹さんとそのお友達の引率で七夕まつりに行くと言っていた。だからこの日にした。SOS団の他のみんなも、それぞれに予定があるという日だった。だから、妹さんという危険な要素はあっても、逆に言えば彼女以外には危険はないとも言えるため、彼を遠くから見つめるくらいなら、きっと大丈夫だろう、という判断だった。
(なんだかストーカーしてるみたい……)
 自分のしていることは客観的に見ればストーカー以外の何者でもないだろう。だが彼と触れ合う機会なんてものは容易に作ることのできないものだ。だから仕方ない――などということを、あたしは今日何度も考えて、その度にため息をついてきた。そして自嘲しながらも、結局は来てしまっている。どんな形であれ、彼の傍に居たいというのが、今のあたしの思いなのだから。
 そのまま、ぼんやりと日陰から周囲を見ていると、だんだんと、確実に人が増えてきていた。やはり皆暑さを避けようというのか、少しでも夕方の日差しを避けられるようにしているようだった。首筋に爽やかな風を感じながら、名残惜しい気がしたが、あたしはその場を離れることにした。なるべく人混みは避けるようにしなければいけない。これからのリスクを考えると、今だけでも少しはリスクを避けなければ。
 街中を、ゆっくりと歩く。屋台が並び、そこかしこに短冊のつるされた竹がある。七月七日の七夕自体は一昨日のことであるが、七夕まつりなのだから、竹を飾っていてもよいのだろう。ふと足を止めて、竹につるされた短冊を見る。何が書いてあるのだろうと覗き込めば、〇〇くんとずっと一緒に居られますように、というような内容だった。その字はだいぶ丸っこくて、おそらくは小学生くらいの子が書いたのだろう。なんともかわいらしい感じがして、あたしは思わず、ふふっ、と微笑んだ。
「そういえば、あたしも書いたなあ……」
 そうつぶやいてから、あたしは再び歩き出し、そして昔のことを思い出した。十六年後と二十五年後に、というようなことを涼宮さんが言って、そういうことを考えて書いたのとは別に、彼と――キョンくんとのことを、こっそり短冊に書いたのだった。それは誰にも見せなかったけれど、そんなことを書くくらいには、あたしは彼のことを好きだったのだ。今と変わらずに。
 あの短冊はどこにしまったっけ。捨ててはなかったと思うけど。
 昔のことを思い出しながら、あたしは歩いていく。一歩歩くごとに一つのことを思い出していくようで、脳裏には次々と彼と、大切な人たちとの思い出が蘇ってくる。思い出は綺麗で、いつまでも浸ることができるような気がした。いつのまにか、心は、あの頃に戻っていた。ふと脳裏に浮かんだあの頃好きだった歌を口ずさんで、歩いていく。
 ——と。
「朝比奈さん?」
 ふいに名前を呼ばれて、あたしは足を止めて振り向いた。声をかけてきた主は、すぐにわかった。声で。なにより、聞きたかった声だったから。
「キョンくん?」
 そこに居たのは、確かにキョンくんだった。ということは――そばに……。さあっと、血の気が引くのがわかった。歌を口ずさむくらいに浮かれていた心が一気に冷めていく。きょろきょろと辺りを見回す。彼の妹さんが、傍に居るのではないかと思って。
 あたしのその様子で、彼は色々と悟ってくれたようだった。あたしの傍に早足でかけよってくると、そっと小声で、
「大丈夫です。今は俺だけですよ」
 どうして。目で問いかけると、彼は後頭部に手をやって、言った。
「いや、なんか急に出かける時になってから長門のやつが自分も行くって電話してきましてね。……ああ、そうか。俺は今日はここの七夕まつりに妹たちをつれてくることになってたんですよ」
「……そこに長門さんが?」
「ええ。急に電話してきて。珍しいこともあるもんだって思いましたけど」
「そう、なんですか。長門さんが、そんなことを」
「そうなんですよ。で、来たのはいいんですけど、俺だけはぐれちまって。長門に連絡しようにもあいつ、携帯の電源切ってるみたいで。あいつのことだから放っておいても危険なことはないとは思いますけど、だからといって妹たちを放ってはおけないし、探してるとこだったんですよ」
 朝比奈さんは? 彼はそのまま問いかけてきた。それはそうだろう。彼からすればあたしがここに居ることは疑問以外の何ものでもあるまい。あたしが居るということは、なんらかの意図があってのこと、と思っているのに違いない。事実、彼の目にはそうした疑いの色があった。
「あたしは――その、ちょっと休暇、と言いますか」
「……は?」
 彼はきょとんとして、あたしの顔をまじまじと見つめてきた。そこから視線を逸らしつつ、あたしはさらに続けた。
「特にその、用事みたいなのはないって言いますか、ちょっと久しぶりに、この時代のお祭りに来たかったと言いますか……」
 ちらり、と彼の方を見やると、彼は半眼になって、どこか呆れたような表情を浮かべていた。まさかあなたの姿を見たかった、などと言うことはできず、あたしは、うう、とうめいて両手で顔を覆った。
「まあ、そういうこともある……んですかね」
「そういうことも、あります……大人になったら、色々、懐かしくなっちゃうんです……」
「……」
「……」
 気まずい沈黙が、少しだけ場を支配した。
「……ええと、とりあえず、俺は行きますけど……」
「……そう、ですね。妹さんたち、心配ですもんね」
 気まずさが残って、再び、お互いに沈黙する。だが今度は先に口を開いたのはあたしの方だった。
「……ごめんなさい、あたしも探すの手伝ってあげたいんですけど」
「ええ。わかってます。長門はともかく、妹に会うわけにはいかないですもんね」
「うん……。いちおう、気をつけながらそれとなく探してはみるから、見かけたら連絡します」
「お願いします」
 ぺこ、とキョンくんは頭を下げた。その姿に、あたしはなんとなく少しだけ距離を感じた。昔よりも彼との身長差が縮まったせいで、昔と見え方が違っているからだろうか。それとも、あたしが、より年上だから、なのだろうか。同じ朝比奈みくるであるはずなのに、記憶にある過去のあたしに対してと、どこか、違うような気がした。
「うん、任せて」
 ずきりと痛んだ胸を隠しながらうなずくと、彼はそこでにこりと微笑んでくれた。
「それじゃあ、また」
 そう言って彼はあたしにくるりと背を向けた。
「うん、またね」
 あたしは彼に、手を振ろうとする。彼の背中を見つめていると、じんわりと、胸の奥に、焦燥感のようなものが生じてきた。それを自覚した時、あたしは思わず、声を上げていた。
「待って!」
 驚いたように振り向く彼に手を伸ばして。驚く彼の手に、自分の手を触れさせて。彼の手の感触。男の子の手。彼の手をぎゅっと握る。
「えっ?」
 うっすら頬を赤く染めて目をぱちくりとさせる彼の顔をまっすぐに見つめる。彼の目に映るあたしはどういう姿をしているだろう。そんなことを考えながら、彼の目を、まっすぐに、見つめる。
「え? 朝比奈、さん?」
「……」
 心臓が、どくどくと鳴る。うるさいくらいに。顔が熱い。頬が痛いくらいに。
「……」
 彼に、言いたい。色々と、伝えたい。まだ、とか、もっと、とか。そういう言葉が胸の奥から口の中まで上がってきて、外に出よう外に出ようと暴れている。だけどあたしは、それを外には出さない。最後に残った理性が必死に押しとどめる。
「……」
 言いかけて開きかけた口を閉じて、彼と見つめあう。戸惑いの色を浮かべている彼の目を見つめてから、あたしはゆっくりと彼の手を離した。
「……ごめんなさい」
 うつむき、彼から視線を逸らしてつぶやくように言うと、彼は、いえ、とだけ答えた。
「……」
「……」
 何度目かの沈黙。にじんできた涙を誤魔化すように、下を向いたまま、あたしは彼に向かって言った。
「ごめんなさい。キョンくんに会えて嬉しかった。引き留めてごめんなさい。妹さん、早く見つかるといいですね」
 こみ上げているいろいろのものを誤魔化すようにして、早口に告げる。彼は何も言わなかった。
「それじゃあ、あたしはあっちに行くから」
 彼のことを見もせずに、あたしは彼が先ほど行こうとした方とは反対の方を示した。そのまま、逃げるように駆けだそうとすると、彼の声が聞こえた。
「俺も、嬉しかったです」
 足を止める。彼の声が続く。
「朝比奈さんに会えて、俺も嬉しかったです。なんて言えばいいか……その、浴衣、すげえ似合ってます。今日の朝比奈さん、すっげえ綺麗で、俺、どきどきしました」
「……!」
 嬉しかった。綺麗だって言ってもらえて、嬉しかった。きっと恥ずかしかったのだろう少し震えた声は、彼が本当にそう思ってくれているということを、あたしに告げていた。あたしのことを意識してくれたのだ、と教えてくれていた。
「ありがとう」
 彼の方を見ないまま答える。
 そういうのは、涼宮さんに言ってあげて。
 本当なら、そう続けないといけない。だけどあたしは、言わなかった。涼宮さんのことなんて考えさせたくなかった。彼があたしのことを――今だけは、あたしのことだけを考えてくれればいい。そう思って、あたしは、何も言わなかった。
「……またね」
 それだけ言って、あたしは最後に、彼の方を振り向いた。顔を真っ赤にした彼が、あたしのことを見つめていた。ひらひらと小さく手を振って、あたしは歩き出した。彼は何も言ってくれなかった。
 早足で歩いて、その場から離れていく。後ろ髪をひかれる想いを振り切るように、歩く。少し離れたところで、空を見上げる。もうすっかり暗くなって、夜空には星が瞬き始めていた。歩調を緩める。目元を指でぬぐいながら、空を見上げる。天の川。一年に一度しか会えない二人を隔てる星の川。織姫と彦星がうらやましい。一年に一度しか会えなくても、同じ時を過ごしているのだから。
 過去は未来に追いつけない。あたしだけが一人、大人になって、あの人はいつまでも、変わらなくて。
 でも、それでも。
「キョンくん……」
 こみあげてきた涙が、頬を伝って落ちていった。この涙で織姫と彦星が会うのを邪魔できたら、どんなによかったかと思いながら、あたしは一人、静かに泣いた。


朝比奈さんの持つ、切なさを伝えたい。それがここ数年の思いです。
アニメだと特に描写が強化されてるんですけれども、かつての恋心に揺れながらも、好きだった人への未練を抱きながらも、という朝比奈さんの切なさは、とても美しいものだと言えるでしょう。
後藤さんの解釈と演技が、とても素晴らしく、涙をこぼさずにはいられないのです。

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