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王道を生み出す芸術の秘宝

逆転を生めないものは、破滅の定め。

何故なら、

逆転を生まないものは、

偏るもので、

偏るものは、

自身の欲望に飲み込まれるものである。

自身の欲望に飲み込まれるものは、

自身で自身を食い尽くすもので、

自身で自身で食い尽くすものを、

ウロボロスの共食い原理にハマる、

と言う。

これは、

自身のしてきたことが、

まんま自身に返って来るもので、

それは、

無自覚にも、

奪い続けて来たものは、破滅に誘われ、

無自覚にも、

与え続けて来たものは、理想に誘われ、

向かう先は、

最後の最後に見えて来るもので、

それを示すものは、

自身の現状であり、

自身の身体の状態である。

死とは、

闇に偏ることから生まれていて、

闇に偏ることは、

簡単に言えば、

物質に偏ることである。

難しく言えば、

意識に偏ることである。

知らぬが仏とは、

知ることにより、

事実が明るみなることで、

事実が見えていなかったことは、

確実に、

自身の意識と身体と現実に、

悪影響を与えている。

三位一体とはこのことで、

それは、

人生にも言えることで、

何も知らないものとは、

後で必ず後悔をする。

むしろ、

後悔すると言うよりは、

後で必ず痛い目を見る、

と言った方がしっくり来る。

その痛い目を見ても真実に気が付けないのなら、

来世でまた頑張って貰うしかない。

見て見ぬふりをして来たもの程、

洒落では終わらないのが、人生なのである。

だからこそ、

ツケの精算しないと何も始まらないのが、

本当の人生で、

そのツケは、

人によっては拷問レベルで、

そういう痛みの伴う様なツケを払えることが、

大人のすることで、

浅い(外見だけ立派)大人ではなく、

深い(中身の伴う)大人になれることが、

本当の大人になることで、

そういう痛みを、

屁とも思わない大人になれることが、

本当のスタートラインに経つことで、

本当のスタートラインに立つとは、

0から積み上げられることのありがたさを、

身に染みて実感できることである。

成長とは、

心が伴うからこそ成長するもので、

心とは、

0からしか育まれないのである。

0とは、闇の根底を体験することである。

その根底を分かりやすく言えば、

他人や親に何も返せないにも関わらず、

与えられること、

または、

愛されることで、

それは、

無償の愛を体感することで、

その体感を実感に変えることが、

0を知る、

と言うことに近いのである。

なりより難しいものは、

体感に通じる実感を得ることで、

実感の伴わないものは、

無に等しいのである。

そう考えると、

0を知るとは、

絶望の中だからこそ、

より深く、

愛やありがたみを感じれることである。

その愛やありがたみの為に頑張れることが、

無償の愛しさを感じることである。

その無償こそが、

中身を養うのである。

そういう体現性の高い愛を経験することが、

心の成長となり、

心が伴う成長を得れることが、

進化の秘宝を得る、と言って、

心ではなく、外郭の成長を得ることを、

偽りの成長、と言うのである。

外郭の成長とは、

物質的な成長だけを指すもので、

この偽りの成長をしているのが、

現代の人々で、

偽りの成長とは、一部のものだけができる、

能力主義のものである。

能力主義とは、

時代の適合者とタイミングのマッチング力が生むもので、

それは、

進化と言うには、あまりに浅いものである。

浅いものとは、

能力に通じる部分の底上げで、

深いものとは、

全力に通じる全部の底上げで、

能力とは、尖るもので、

全力とは、丸くなるものである。

進化の秘宝とは、

丸を得ることであり、

尖りを得ることは、進化ではなく、

簡易的進化で、

簡易的進化とは、科学的要素であり、

絶対的進化とは、自然的要素である。

ここを間違えないことが、

進化の大前提であり、

そこを間違えたものは、

その代償を払わないと、

とても先に進めるものではない。

何故なら、

科学と自然は正反対で、

正反対をしてきたもの程、

先に進むことは、逆戻りを意味していて、

逆戻りとは、理屈でするものではなく、

体現でするもので、

体現とは、理解でするものではなく、

行動で示すもので、

1次元の違いがそこにあるのである。

1次元の違いとは、

平面と立体の違いで、

平面は、簡単に得れても、

立体は、簡単には得れないものである。

何故なら、

平面とは、二極化で、

立体とは、多極化で、

白黒で答えが出るのが、二極化で、

白黒で答えが出ないものが、多極化である。

と言うよりは、

白黒の先にあるものが、多極化である。

二極化は、外見で終るもので、

多極化は、中身となるものである。

その意味こそが、

本当の答えの表れである。

だからこそ、

進化の秘宝とは、

甘いことの中にはなく、

全ての代償を払った先にある、

意識世界からの物質世界の開拓である。

このことを、

探求心を誘うものと言って、

探求心を誘うものは、

自身の完全なる克服があった先に見える、

理想郷の開拓の兆しである。

その世界観は、

まさにファンタジーである。

そのファンタジーを現代で表すのなら、

それは、

王道漫画や王道ゲームの世界観である。

その王道の世界観を現実で披露することが、

0からスタートすることで、

1(リセット)からではなく、

0からのリスタートができるもののみが、

理想の世界と、

理想の自身を作ることを可能にする。

何故なら、

実際に漫画やゲームの世界で、それは既に行われていて、

漫画やゲームの世界でできることが、

現実の世界でできない訳がないからである。

王道とは、そういう意味で、

王道とは、理屈ではなく、

意識を先にするからこその王道で、

王道とは、意識を先にできるからこその王道なのである。

理屈ばかりを先にする主人公が少ないのは、

意識にこそ可能性があり、

理屈には可能性が薄いことを示しているのである。

だからこそ、

物事は、

捉え方が重要で、

全ては逆を捉えられることで、

真の現実とは見えるものなのである。

それは、

現実から漫画やゲームが作られ、

漫画やゲームから現実が作られている訳ではないからである。

だからこそ、

漫画やゲームにできることは、

現実でもできることで、

現実でできることとは、

脳内でできることと、

体現でできることの二種類があるのである。

それは、

バーチャルで作るものが、仮想性で、

リアルで作るものが、現実性で、

仮想性とは、物質進化に繋がり、

現実性とは、生命進化に繋がる。

その違いが、

物質進化と生命進化の違いとなる。

それはまさに、

西洋と東洋の違いで、

西洋が受け継ぐものは、

バーチャルリアリティで、

東洋が受け継ぐものは、

リアリティーである。

バーチャルリアリティとは、

綺麗を主とするもので、

リアリティーとは、

汚いを主とするものである。

全ては裏返ってこそ形となるもので、

バーチャルリアリティとは、

希望(外側)からの絶望(内側)、

リアリティーとは、

絶望(内側)からの希望(外側)である。

これは、

人によっては、立ち位置が変わる為に、

理想や在り方が変わることを意味している。

理想とは、現実性が高いものを選ぶもので、

現実性が低いものは、

理想ではなく、犠牲となる。

だからこそ、

そこを間違えないことが肝で、

そこを間違えないことが、

頂点に立つものになる。

それは、

頂点に立てるものだけが、

理想を得れることを意味していて、

頂点に立つとは、

絶望を希望に変えられることで、

それは、

黒を白に変えることで、

黒を白に変えることは、

他人は関係なく、

自身の問題を越えられるかどうか?

である。

それを越えられた者だけが、

頂点を知るもので、

頂点とは、

個人感と全体感があって、

個人感は、征服感となり、

全体感が、至福感となる。

本当の理想とは、

征服ではなく、

至福を知ることである。

その至福とは、

リアルあってのバーチャルで、

バーチャルを先にするリアルは、

至福でも何でもないのである。

むしろ、

その至福を勘違いする為にバーチャルがあって、

支配を好み、

欲望に囚われるもの程、

バーチャルを好むのである。

だからこそ、

理想とは、全ての絶望と欲望を越えてこそ、

構築できるもので、

それらをできないものが、

絶望からなる混沌を呼び寄せるものとなるのである。

それは、

理想の世界に行くには、

各自がその絶望を越えなければ行けないことを意味していて、

各自の努力だけが、

その鍵を握っていることを示しているのである。

これは言うなれば、

進化の先には、理想の世界があって、

進化を知らないことは、滅ぶことを意味しているのである。

現代のカオスっぷりが、それを示している。

だからこそ、

物質科学だけは、発展し、

生命科学は、退化した。

偏ることは滅びとなり、

滅びを示すものは、古代文明となった。

退化した結果が、

理想の世界を仮想現実の中だけとし、

脳内からの世界創造が、

表にある現実の世界の意味となった。

全ては、

何も知らないからこそ、

簡単に裏返った。

偏ることがその原因である。
 
ただ、

偏り過ぎることは、

原因を見付ける最後の要因になる。

だからこそ、

その要因を見抜くことは、希望となり、

偏ることは、限界となる。

限界とは、

西洋文明の行き着く先を意味していて、

限界突破は、

東洋文明の可能性を示している。

今はその過渡期であり、

過渡期だからこそ、

まだ世界の方向性は決まっていない。

決めるのは、自身である。

飲み込まれるのも、自身である。

真の理想とは、

枠の中にはなく、

枠の外にある。

枠を主とするのは、西洋文明で、

枠を無くすのは、東洋文明の役割である。

その役割を担うのは、

深く気が付けるものと、見えない行動を重ねられるものだけである。

見える行動を重ねたものは、

所詮は二番煎じで終わり、

どうせ生きるなら、

一番煎じで行くべきである。

一番煎じとは、

常識を覆すもので、

それは、

後も先もないもので、

今を掴めるものだけが理想郷の世界を開けるのである。

真の理想郷とは、

外側で感じるものではなく、

内側で感じるものである。

内側あっての外側こそ、

真の理想郷である。

内側で理想郷を感じれるものは、

この世界の真実を知るものであり、

それは、

自ずと一部となる。

何故なら、

それほど過酷なことが、

真実を知る、と言うことで、

過酷を越えられないものが、

掴めるものでないからである。

だからこそ、

真実を知りたいのなら過酷を越えてみよ。

過酷を越えて真実を垣間見てみよ。

そうすれば、

自身の下らない人生観など、

あっという間にゴミクズの様に無くなることだろう。

そういう現実を知りたいのなら、

今ある可能性の扉は全て叩くしない。

生きるとは、本来未熟者程、

カッコつけられたものではない。

綺麗でもいられない。

可愛くもいられない。

絶望を越えてこそ、

サナギは開花する。

それは、

何も知らないものは、

勘違いばかりだからこそ、

身の程を知れ、と言うことである。

身の程を知って、身から出た錆を出しきって、

自身の身を自身の力を持って1から整えろ、

と言うことである。

そういうことが分かるなら、

まだ見込みはある。

安易な理想を掲げたいのなら、

他に行くべきだろう。

ここは、

本物だけが集う場である。

本物だけが集う場は、

甘ちゃんには、到底ついてこれない世界である。

付いてくるのなら、

それなりの覚悟は覚悟して貰う。

例え、上手く行かなくても、

責任は自身で取れ、と言うことである。

厳しいと思うが、

それが人生と言うものの本質であり、

醍醐味である。

洒落たことを言えば、

人生とはギャンブルなのである。

これはまさに、

映画のマトリックスの選択であり、

赤のカプセルを飲むのか?

青いカプセルを飲むのか?

である。

選ぶのは自身で、

試されることを越えるには、

試す側に立つしかないのである。

何も知らないものは、

常に守られる側で終わり、

守られる側は、弱者で終わり、

弱者で終わる人生を生きる為に、

人生はあるのではない。

そう思うのなら、

行くべき道は最早1つしかない。

それは、

真の強者を目指す道である。

真の強者とは、弱者から這い上がれるもので、

弱者から這い上がれる真の強者とは、

芸術そのものである。

芸は肥やしとなるもので、

肥やしは磨けば術となるもので、

そういう芸術を得る為にこそ人生とは、

あるのではないのか?

芸術とは、闇を越えてこそ生まれるもので、

闇を越えない芸術など、

何の意味もないのである。

だからこそ、

芸術とは、憧れそのもので、

憧れとは、中身そのもので、

中身が伴うからこそ、

人生は本当の意味で、花を咲かせることができる。

そんな人生を夢見て、

生きることが人生の価値ではないのか?

その価値の本質は、

夢は夢として終わらせないことで、

夢は夢として終わってしまっても、

そんな人生でも、

良かったと笑える程頑張れることが、

本当の価値ではないだろうか?

結果に価値はなく、

目指すことにこそ価値がある。

それが生き方の基本である。

だからこそ、

無駄に生きることに価値はなく、

どうせ生きるのなら、

価値のある生と、価値のある死が欲しい。

それはまさに、

どんな時でも心を燃やせる信念を得ることが、

本当の光となることを信じて終る儚き人生。

永劫よりも、今を取る強さ。

人生は、

一瞬一瞬が全てであり、

その一瞬を掴み続けることが、

芸術の本質であり、

人生の極みは芸術にこそある。

だからこそ、

昔の日本には、芸術が溢れていたのである。

芸術の基本とは、

自身を貫く為に全てを賭けれることである。

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