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どんぐりの背比べが現代     ~メンタルが全てを変える~

今回の記事は、

理解の確信だよ。

確信になると理解が逆転するから、

信じられる人だけ信じてね。

毒だしがはじまったら、

気をつけてね。(笑)



この世界は、

本当にどんぐりの背比べでしかない。

何故なら、

形ばかりに囚われているからである。

形ばかりに囚われることを、

知識に囚われると言って、

知識に囚われることを、

物質性に囚われる、と言う。

その物質性に囚われることを、

どんぐりの背比べと言って、

どんぐりの背比べとは、

意識を知らなければ、

一生、どんぐりの背比べになる。

この意味が分かるかな?

人はね、

本来の力を全く活かせてないんだよ。

人を活かすことってね、

物質的に活かすことではなく、

意識的に活かすことなんだよ。

物質的に活かすことは、

外側の構築にしかならなくて、

外側の構築って、

システム構築で終わるんだよ。

逆に、

そのシステム構築を越えるのが、

意識的に人を活かすことで、

意識的に人を活かすことは、

人を根本から画期的に変えることに、

通じているんだよ。

何故ならね、

外側の理解は、表面的に人を変えることで、

内側の理解は、深層的に人を変えるからだよ。

深層的に変えることはね、

人を圧倒的に変えるよ。

これがその証拠の写真だよ。↓

しかもね、

これは本当の力の、ほんの一部なんだよ。

だからね、

この理解がなくて、

外側の話をすること、

話にならないよ。

この人智が分からないでする話、

見てる世界が低次元だよ。

だからね、

内側の構築ができるものからしたら、

外側の構築からなる表層原理は、

小細工でしかないんだよ。

その小細工争いをしてるのが、

現代なんだよ。

ああしたら良いとか、

こうしたら良いとか、

そういう上辺だけの話しは、

深層理解を手に入れた人からすれば、

どうでも良すぎるんだよ。

だからね、

上辺(外側)だけ理論、

これってね、

本当に下らないことなんだよ。

外側だけを知るって、そんなもんなんだよ。

外側を知ることって、下(物質)を知ることで、

上(意識)を知らなければ、何も実らないんだよ。

そういうことすら分からないから、

どんぐりの背比べだと言っているんだよ。

だからこそ、

全てがつまらないんだよ。

先が見えることをやり続けることが、

下を知ることで、

先が見えないことをやり続けることが、

上を知ることだよ。

何が言いたいのか分かるかな?

根本を変えることは、目先の結果の中にはなくた、

先の見えない成果の中にしか宿らないんだよ。

その先の見えない成果を繋げることを、

内側の構築を知るもの、と言うんだよ。

だからね、

根本を変えることは、上(意識)にあって、

下(物質)にあることは、手前の改善なんだよ。

手前の改善とは、

一歩先をすることで、

一歩先をすることは、知れてるんだよ。

と言うよりは、

一歩先をやることは、科学のすることだよ。

人がすることは、

科学ではなく、非科学(生命学)なんだよ。

生命学とは、10(答え)あっての1(問い)で、

科学とは、1(問い)あっての10(答え)なんだよ。

そして、

生命とは、感情あっての理屈で、

科学は、理屈あって感情なんだよ。

感情は、10で、

理屈が、1なんだよ。

だからね、

生命とは、

1歩先ではなく、10歩先を目指すことで、

成果からなる結果となるんだよ。

物質は、その逆で、

結果からの成果となるんだよ。

分かりやすく言うのなら、

生命理解あっての、科学理解で、

科学理解あっての、物質理解なんだよ。

多くの人はこれを、

科学あっての物質で、終わってるんだよ。

だから分かるようで、何も分からないんだよ。

全ては、

理解の在り方を勘違いしているからこそ、

何も生めないんだよ。

1を知るものは、1で終わり、

0を知るものが、1、2、3となるんだよ。

このことを科学、と言うんだよ。

そして、

原点を間違えることを、

仮想現実と言って、

システム理解だけで終わるものが、

今の学びの限界なんだよ。

言い換えるのなら、

リアルを作るのは1ではなく0で、

0とは、内側の構築理論から生まれるんだよ。

ただそれは、

簡単に理解できないからこそ、

手前から細かく知る必要があって、

奥行きを知る程に、

理解は仮想現実から実像現実化へと、

その姿を変えるんだよ。

そのことを、

1歩先ではなく、

10歩先を知る、と言うんだよ。

1と10の違いは、

物質と意識そのもので、

10歩先(意識)だけが人を画期的に進化させることに、

通じているんだよ。

ちなみに、

3歩先のことを、物質科学と言って、

1歩進んで2歩下がること、

意識科学、と言うんだよ。

その一歩進んで、

2歩下がることを続けることが、

次第に10歩先の理解になるんだよ。

そのことを、

学びの本質を掴む、と言うんだよ。

だからね、

後退を知らないもの、何も知らないよ。

前進ばかりして分かること、低レベルだよ。

理解とは、後退してこそ実るもので、

後退を知るからこそ、人は謙虚になれるんだよ。

だからね、

謙虚になれないもの、勘違いしてるよ。

理解を形でしか、捉えられてないよ。

形で理解することは、問いを生み出すことだよ。

形で理解しないことは、答えを知ることだよ。

違いは、質の違いとなって、

形は、真実、

無形は、真理だよ。

分かりやすく言うのなら、

マイナス1が真理になるんだよ。

そしてね、

マイナス1の積み重ねが、意識科学だとするなら、

プラス1の積み重ねが、物質科学になるんだよ。

全ては転換するからこそ、

答えとなって、

それは進化の方向性の違いとなるよ。

物質科学が、プラスの進化なら、

意識科学は、マイナスの進化で、

マイナスの進化は、

未だに多くの謎に包まれているんだよ。

その謎を解き明かすのは、

自身のみで、

信じるのか?

信じないのか?

それは各自の経験と判断に委ねられるんだよ。

科学って、そう言うものだよ。

自身で開拓するからこその科学だよ。

人にして貰うことは、科学ではないよ。

だからこそもし実感があるのなら、

意識科学を勉強した方が良いよ。

何故なら、

これはまだ序章だからだよ。

これは、

まだ浅い意識理解だからだよ。

本番はこれからだよ。

重要なことは、

時間がないとできないのが意識科学なんだよ。

物質科学の10倍の時間を要するのが、

意識科学だよ。

だからこそ、

乗り遅れたら最後だよ。

ここまで言っても響かないのなら、

置いていくからね。

上辺で理解してもどうにもならないのが、

科学だよ。

文面は、上辺だよ。

上辺は、はじまりだよ。

上辺を知ってもどうにもならないよ。

頭でっかちに、なるだけだからだよ。

頭の理解を越えてこそ、

理解は実るものだよ。

結果ね、

本来の人間の力って、

こんなもんじゃないんだよ。

何故なら、

何層も重なることが、意識の力となって、

層を重ねることは、

理解ではなく、実力主義なんだよ。

実力主義とは、

時間が掛かるもので、

時間が掛かるものは、

要領よくできることじゃないんだよ。

全ては時を重ねられることが力となるんだよ。

となるとね、

本当の理解が何も積み重なっていないものが、

現代となるんだよ。

分かりやすく言うのなら、

時間を掛ける所を間違えているんだよ。

時間を掛ける所は、

上辺ではなく、中身で、

中身とは、自身を何度も省みることなんだよ。

そこを簡単に考えて、

おざなりにするからこそ、

上辺しか育たないんだよ。

言い換えるのなら、

簡単に育つものが、上辺(偽り)で、

簡単に育たないものが、中身(本質)なんだよ。

上辺=知識(形)で、

中身=知恵(無形)なんだよ。

だからこそ、

上辺から得れるものって、

意識からしたら何もなくて、

何もないからこそ、

人一人まともに育ってないんだよ。

だからね、

人の進歩ってね、

頭じゃないんだよ。

頭は、科学主体の進化で、

身体が、意識主体の進化なんだよ。

それを示すのが、

宇宙人のグレイなんだよ。

皆グレイみたいになりたいのかな?

なりたいのなら構わないけど、

なりたくないなら、

肉体からなる意識進化を目指した方が良いよ。

だからね、

何も知らないと進化の方向性を誤るよ。

ちなみに、

進化の方向性を分かりやすく言うと、

今の所は、

脳内進化と体内進化があるんだよ。

脳内進化とは、外を主とした進化で、

体内進化とは、内を主とした進化なんだよ。

理想はね、

どちらにも偏ることなく中間を辿ることで、

そのことを、

意識進化、と言うんだよ。

更に言うと、

今までの歴史は、

東洋が、体内進化(3次元進化)、

西洋が、脳内進化(2次元進化)、

となっていたよ。

そして、

体内進化は、無くなり、

脳内進化だけが発展しているのが、

現代だよ。

その意味が分かるかな?

何処を主として生きるのか?

今選択を迫られている、

と言うことだよ。

だからね、

ここで自分の歩むべき方向性を決められないのなら、

その先にあるものは、

滅びだよ。

そうならない為にも、

自身の進むべき道を定めた方が良いよ。

脳内進化か?

体内進化か?

まずは、これだよ。

まあ、

脳内進化の先には、闇しかなくて、

体内進化の先には、光しかないけどね。

纏めるとね、

何も知らないと闇に飲み込まれるよ。

今後は、

物質主体の世界ではなくなるよ。

その意味が分かるのなら、

早めに移行した方がよいよ。

ここから先は話が肉体的になるので、

気になる人は読んでね。



マニアックな人は来たかな?(笑)

どんぐりの背比べを卒業したい人も来たかな?

では、始めるね。

どんぐりの背比べを卒業するにはね、

意識をちゃんと使うしかないんだよ。

意識をちゃんと使えれば、

身体の使い方は根本から変わって、

根本から変わるからこそ、

全ての力の使い方が変わるんだよ。

そのことを、

物質意識から精神意識に変わる、

と言って、

精神意識に完全に切り替わると、

身体の使い方も全て変わるんだよ。

それは、

脳主体に身体を使うのではなく、

丹田主体に身体を使うことで、

丹田主体に身体を使えることは、

内側から外側に身体を使うことになるんだよ。

物質意識が先に来ることは、

これとは正反対で、

外側から内側に身体を意識することになるんだよ。

これは言い換えるのなら、

身体を使うことに、

一手間入ることで、

一手間入れることで、

身体の機能は、

10の機能から1の機能へと低下して、

力の使い方は、

全く正反対になるんだよ。

分かりやすく言うのなら、

脳から身体を使うことは、1の機動力、

丹田から身体を使うことは、10の機動力となるよ。

1桁違うのが、脳と丹田だよ。

言い換えるのなら、

意識と無意識の関係そのものだよ。

だからね、

そこを見誤ると、

精神意識は消え、

物質意識のみとなって、

外側からしか身体が使えなくなるよ。

結果、

一生本当の身体の使い方を知らないまま、

人生を終えることになるんだよ。

行着く先は、サイボーグ化だよ。(笑)

だからね、

いっくら外側から学んだって、

お門違いも甚だしいよ。

1から10を知ることは不可能で、

10からしか1は知れないからだよ。

だからこそ、

自身の内側が見えなくなるのが、

関の山だよ。

結果、

外側ができることって、

本当に上辺のことだけで、

上辺だけ活かしたってできることは、

知れてるんだよ。

知れてるからこその現代なんだよ。

ちなみに、

上辺だけを活かせるのは、

才能があるものだけだよ。

凡人は、才能すら分からないし磨けないよ。

しかも、

その才能があるものでさえも、

結局の所は内側に還れないで終わるんだよ。

そう考えると、最早カオスだよ。

カオスだからこそ、

才能は闇で、

闇は、才能を捨てない限りは、

光とならないんだよ。

そして、

今の現代社会で才能を捨てるのは無理だよ。

才能を主にして生きるのが、

現代となっているからだよ。

となると、

最早お手上げだよ。

ここまで全てがとち狂っていると、

どうにもならないよ。

本当に才能があるものが蔑ろにされ、

上辺だけの才能がもてはやされる。

何かが変わる訳ないって。

見る目無さすぎだって。

自身に囚われすぎだって。

ちなみに、

才能の分かりやすい例を上げるのなら、

その代表例が、

オリンピック選手だよ。

オリンピック選手ですら、

身体なんてまともに使えてないのが、

現状なんだよ。

それはね、

見れば分かるんだよ。

殆どの人が、心と身体が一体化してないんだよ。

分かりやすく言うのなら、

全体化ではなく、固体化してるんだよ。

固体化は、低レベル(外理解)、

全体化は、高レベル(内理解)なんだよ。

そしてね、

全体化とは、

人生の前半で掴めるものではないんだよ。

何故なら、

抜きの奥義が、全体化で、

固体化は、抜きではなく、

力業なんだよ。

その力業を主とするものが、

人生の前半戦で、

人生の後半戦から、

抜きの奥義が生まれるんだよ。

だからね、

人生の前半戦で得られる成功は、

成功でも何でもないんだよ。

人生の前半戦は、才能だけでも得られるもので、

人生の後半戦は、才能だけでは物足りないんだよ。

しかも、

後半からが本番なのに、

本番で衰える人がほとんどなんだよ。

それはね、

理解の在り方を違えるからこそなんだよ。

その在り方そのものが、

答えの浅さを示しているんだよ。

それは、

形からしか学ぶことを知らない、

闇そのものなんだよ。

そういうことはね、

身体の使い方を見れば、

一発で分かるんだよ。

エネルギーからも勿論分かるけどね。

だからね、

本当の身体の使い方って、

意識が先で、物質が後なんだよ。

言い換えるのなら、

メンタルが先で、肉体が後なんだよ。

メンタルを知ることは、

肉体を知ることではなく、

無自覚を知ることで、

無自覚を知ることは、

肉体操作を意識操作と変えるんだよ。

全ては超越することで、

肉体意識は、意識操作に裏返るんだよ。

だからね、

裏返るまでメンタルを鍛えないと、

肉体は、物質意識で終わるよ。

その物質意識で終わったものを、

学問と言ってね、

才能があるもの合わせた知識のことを、

表の学問と言うんだよ。

そうなると、勿論

裏の学問もあって、

その裏の学問のことを、

メンタル学問、と言うんだよ。

表の学問は、全てが1で、

裏の学問は、全てが10だよ。

何故なら、

表は、形からなる具体性で1となり、

裏は、無形からなる抽象性で10となるからだよ。

そして、

メンタル学問とは、10となるもので、

10とは、

才能など関係ないもので、

尚且つ誰にでも通じることで、

誰にでも通じるからこそ、

1が10になるには、

ここしかないんだよ。

そのやり方が、

できてる人に合わせて貰うことなんだよ。

自身が合わせるのではなく、

合わせて貰うことで開く扉のことを、

本当の理解、と言うんだよ。

理解とは隙間を無くしてこそのもので、

その隙間を埋める為に、

合わせて貰う必要があるんだよ。

だからね、

表の学問とは、

目に見える学問で、

目に見える学問とは、合わせて貰えないもの。

合わせて貰えないものは、1となる。

逆に、

裏の学問は、

目に見えない学問だからこそ、合わせて貰えるものとなり、

合わせて貰えるからこそ、10となる。

だからこそ、

目に見える学問とは、

人を選ぶもので、

目に見えない学問とは、

人を選ばないんだよ。

結果それが、

全てに通じるものとなり、

全てに通じるからこそ、

そこから自身を読み解くことで、

全ては1つになるんだよ。

更に噛み砕くのなら、

自身を主として考えられないからこそ、

理解とは定まらないもので、

自身を主として考えられるのなら、

理解とは定まることを意味しているんだよ。

これを裏技と言って、

この裏技は理解を完全に体現することで、

勝手に深まるものになるんだよ。

それこそが、

真の理解と、

真の肉体操作の鍵となるんだよ。

裏を返せば、

才能がないものは、学問すら活かせないんだよ。

活かせてないからこそ、

何も身に付かないんだよ。

だからこそ、

メンタル学問こそ、

最も必要な学問となるんだよ。

そしてね、

このメンタル学問を知る人は、

いないんだよ。

何故なら、

自身を克服しているものが、

いないからだよ。

まさに、

外に結果を求め過ぎた結果なんだよ。

人は自身の煩悩に囚われるからこそ、

外に囚われるんだよ。

だからね、

いないからこそ、

意識操作や肉体操作も、

まともにできないんだよ。

となると、

何にも活かせてない人が世界には、

溢れているんだよ。

この意味が分かるかな?

どんぐりの背比べ以下の世界が、

そこにあるんだよ。

外側しか知らないって、そう言うことだよ。

人を選ぶのが外側の定めなんだよ。

定めとは越えてこそ、理解となるんだよ。

だからね、

学問から学ぶこと、

しなくていいよ。

一般認識があれば、

充分だから。

だからこそ、

学問から学ぶことは、

できる人だけがすれば良くて、

できない人からすれば、

学問ほど的外れなことはないんだよ。

学問とは、できる人の為に作られたようなもので、

できない人の為に作られてる訳じゃないからだよ。

それは、

結果を見ればあきらかで、

できる人より、できない人の方が圧倒的に多いんだよ。

そしてね、

そう言うことを、平気で無視できるこの世界そのものが、

そもそもおかしいんだよ。

犠牲を生み出す理解が、

理解な訳がないからだよ。

だからね、

学問は、的外れで、

的当てとは、

自身に合わせて貰えることだよ。

だからこそ、

学問とは、

合わせる為にこそ、

活かすものだよ。

結果、

人が学問に合わせるのではなく、

学問が人に合わせるべきなんだよ。

それをすることが、

先生のすることで、

それができない先生とは、

先生でも何でもないんだよ。

学問に先生が合わせるのではなく、

皆に合わせられるのが先生で、

学問とは、その後で充分なんだよ。

何事も後を先にするから、

次第におかしくなるんだよ。

だからこそ、

目に見える結果は、愚かの始まりとなり、

目に見えない成果は、神道の始まりだよ。

学問を活かすとは、

詭弁を垂れることじゃないんだよ。

どれだけ体現できるか?

なんだよ。

どれだけ人に合わせて、伝えられるか?

なんだよ。

それはね、

自身で工夫して学んで来たものしか不可能なことなんだよ。

言い換えるのならね、

そういうことができないものほど、

学問を主としてしか学んでないんだよ。

学問とは、後付けにするからこそ、

噛み砕けるもので、

学問を主としたものは、

学問を噛み砕けなくなるんだよ。

囚われるって、そういうことだよ。

学問を主として学ぶことは、

自ら好んで囚われているんだよ。

無知かだからこそ、そうなるんだよ。

才能に頼るからこそ、そうなるんだよ。

目に見えるものに囚われるからこそ、

そうなるんだよ。

だからね、

主にするものは学問ではなく、

自身の感性なんだよ。

何事も感性あってのものなんだよ。

だからこそ、

感性あっての学問が、理解なんだよ。

万人が求めるものは、それなんだよ。

それらのらものは、

エリートが生み出すのではなく、

奇人、変人が生み出すんだよ。

言い換えるのなら、

当たり前の中に答えはなくて、

当たり前以外の中に答えがあるんだよ。

だからこそ、

学問は、学問しか読み解けなくて、

学問以外が、学問そのものを読み解くんだよ。

本当の理解者って、

そう言うものだよ。

型に囚われないからこその理解者だよ。

枠の外に行けるからの理解者だよ。

全てはそこに到達してこそ、

どんぐりの背比べは終わり、

どんぐりの背比べが終わった先には、

圧倒的な差が、

そこに生まれるものになるんだよ。

それは、後々に分かるもので、

今を理解できないものに、

先はないよ。

創造を知らないものにも、先はないよ。


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