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ちょっと変わった観点のお話

今の時代は、そもそも根本がズレ過ぎてる。

それは、

先手が先に来るのではなく、

後手が先に来ている。

先手とは、意識(直感)であり、

後手とは、物質(思考)である。

例えば、

物(食)は、大切だと言うが、

食よりも大切なものは、意識である。

何故なら、

食(後手)は、1(基礎)であるが、

意識(先手)は、0(基盤)である。

更に言えば、

自然が大切と言うが、

自然を壊すのは、

応用(博識)を知らない基礎(無知)であり、

無知とは、

意識(無意識)の在り方である。

全ては、

1(無知)と0(博識)を勘違いするからこそ、

全ての歯車は、壊れる。

それが、

二面性(意識)と多面性(無意識)の罠とも言える。

だからこそ、

食べ物は、自然じゃないものが凄く多いと言われているが、人間そのものが不自然過ぎることが、

そもそもの根本原因である。

だからこそ、

そこを変えずして、食(他)を変えた所で、根本は変わらないのである。

分かりやすく言えば、

外見が食の限界であり、中身は意識が作るのである。

外見とは、意識化、

中身は、無意識化である。

違いは、

1と10である。

この1と10がひっくり返ると、

全ての理は、逆になる。

多くの人はこれが分かってもできないからこそ、

1の領域を全てとしている。

安易とは、1の領域から生まれている。

1(安易)は、できる(証明)領域であり、

10(真意)は、できない(非証明)領域である。

できる領域は、簡易領域であり、

できない領域は、絶対領域である。

この簡易と絶対の違いすら分からないのなら、

それで分かることがないのは、当たり前である。

それが、

根本がズレている、と言うのである。

根本がズレるとは、

分からなくしているのは、自身である。

と言うことである。

その分からない意味が分かることが理解であり、

分かることが分かることに意味はない。

分かることが分かるとは、二面性領域で、

分からないことが分かることが、多面性領域だからである。

分かることが分かることは、転換必要なしで、

分からないことが分かることは、転換必要ありである。

分かるとは、光要素だけ、

分からないとは、闇要素を含むもの。

この統合を答え、と言う。

なので、

転換とは簡単にはできないものである。

何故なら、

意識化(表面)でするものは、転換ではなく、

無意識化(深層)でするものが、転換だからである。

先(ツール)の理解とは、表面(繋ぎ)で、

後(ソース)の気付きが、深層(欠片)である。

無意識を知らないものは、本当の転換を勘違いしている。

頭でするものは、転換ではなく、

感覚でするものが、転換である。

簡易は、頭(非現実)であり、

絶対は、感覚(現実)である。

そう言うことが分からないからこそ、

意識と無意識の区別すら付かない。

意識とは、一人分、

無意識とは、二人分である。

全ては、

唯物論にハマった末路である。

唯物論にハマったものは、

必ず、

意識と無意識の関係が逆転している。

それは、

1と0の逆転であり、

食(物)と意識の逆転でもある。

そういう結果が、

全ての在り方を逆にしている。

だからこそ、

多くの人は、自身ではなく、先に、他を変えようとしている。

これはハッキリ言って無駄である。

何故なら、

自身が変われないから他を変えようとしている。

これが本音であり、自身の現状だからである。

変われない自分を受け入れられないからこそ、

他ばかりに目が行くのである。

それは自身の弱さと愚かさの結果であり、

それに目を向けられないことが、

根本原因だからである。

これは、

安易な理想に逃げ、混沌を遠ざけた結果である。

簡単に逃げ、至難をないものとした結果である。

分かるを主とし、分からないを放置した結果である。

それは、

できる(光)を全てとし、

できない(闇)を蔑ろにした末路である。

全ては、

自身の怠慢の裏返しである。

その怠慢が、

事実を知っても自身を変えられない自分をつくっている。

だからこそ、

事実を難しくしているのは、

自身である。

現状を受け入れなくしているのは、

自身である。

その理由は人によって変わるもので、

あえて的を絞るのなら、

男性なら、プライド(野獣)、

女性なら、真面目(美女)、

と言ったものになる。

ニュートラルとは、こういった自身の核となる感情を消せることである。

なので、

それらを消せないのなら、全く話にならない。

頭の理解と体験が全くマッチしていない。

中身のない口先だけの理解とは、そう言うことである。

全ては、

自身が変われないからこそ起こること。

裏を返せば、

それほどに変わることは、難しいことで、

変われることにこそ、真価(価値)がある。

価値とは、表(物質)にはなく、

裏(意識)にある。

裏とは、闇(中身)であり、

表は、光(外見)である。

一体化が、パラレル(理想)である。

だからこそ、

変わるとは、

光の中にいては、不可能なこと。

何故なら、

光は、闇を隠すもので、

隠すものを炙り出してこそ、

光とは、真の光になる。

分かりやすく言えば、

闇の中でも光れるものこそが光であって、

闇を隠す光は、

偽りを隠す光で、

偽りを隠す光を光としていたら、

そんなものは、

偽物である。

本物とは、

闇すらもの含められるからこその、

本物である。

ただ、

この偽物が現代の現状である。

偽物とは、

当たり前のことを言っているだけである。

だからこそ、

この当たり前を主としていたら、

何も始まらない。

全ては根本を違えるからこそ、

おかしくなるもの。

根本原因とは、

原因あっての結果で、

原因とは、人であり、

結果とは、物である。

言い換えるのなら、

原因とは、意識であり、

結果とは、物質である。

意識とは、0であり、

物質とは、1である。

0とは、人の基盤であり、

1とは、物の基盤である。

それは、

先に正すことは、自身の在り方であり、物はその後のことである。

多くの人は、現実(遠く)に囚われ、現状(近く)が見えてない。

遠くとは、結果(物)であり、

近くとは、原因(意識)である。

結果とは、後の祭りであり、

原因とは、先の転換(解決)である。 

これは、

後のものを先にすることで、

全ての物事は狂うことを意味してる。

なので、

根本を変えるとは、物ではなく、何より先に自身である。

自身とは、意識である。

それができないのなら、現実に囚われ過ぎた結果であり、

自身のケツ1つまともにフケないからこそ、

何も変わらないである。

他を見てる暇があるのなら、自身を変えろ、と言うことである。

変わるとは、自身のケツを自身でフケることである。

現実(思考)と現状(意識)の区別1つできないからこそ、

全ての歯車は狂うのである。

意識より先に思考を見てしまうことは、自身を見たくない裏返しで、

自身を見ない為に、他がある、とも言えるのである。

多くの人は、これをし過ぎである。

これらのことは、

自身の弱さの裏返しであり、1を0にできない理由は、

まさに自身の在り方に問題があるからで、

自身1つ見抜けないからこそ、

何も分からないのである。

そんな自身の愚かさを認めることから、

現代人は始めるべきである。

全ては、1からではなく、0から始めるべきである。

結果に囚われるからこそ何も分からず、

成果を蔑ろにしているその姿勢が、

愚かなのである。

全ては自身の無知を知りて一歩目である。

自身ではなく、他者を先に認められてこその、

理解である。

結果(答え)が全てではなく、成果(問い)が全てである。

だからこそ、

理解とは、自身の為にするものではなく、

他者の為にできてこそのものである。

それが、

転換だからである。

裏を返せば、

自身ばかりを先にするからこそ、

何も見えてこないのである。

受け入れられない自身の器のなさが、

理解の表れなのである。

ちょっとテイスト変わったな~🤔

にゃはは~☺️

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