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驚天動地の事実は意識の中

さあこっから先は、

現代の学びの一足先を行くものになるよ~☺️

教わる側ではなく、

教える側に行きたいのなら、

チェックは必須だよ~🐱

芸術性が今後は極まって行くので、

値段の提示は、

僕の価値の提示で、

今後は、

ストリートミュージシャン的な立ち位置を目指すぜ~🤩

なので、

今回の文章に感化できるのなら、

チュプをお願いします😍





現代の理解の在り方は、

的を得ていない。

何故なら、

的とは、物質から得るものではなく、

意識から得るものだからである。

それを知ることは、

全く新しい理解の在り方を知ることである。

その全く新しい理解の在り方とは、

形(物質)から理解を得るのではなく、

行為(意識)から理解を得ることで、

意識から理解を得るとは、

物質から得る理解を超越した、

本来あるべき理解の在り方。

本来あるべき理解の在り方とは、

誰かから学ぶことではなく、

自然から学ぶことで、

自然から学ぶことは、

意識と行為を一致させることで、

それは、

意識と行為を高めることから生まれるもの。

言うなれば、

行為とは、

多角的に見れば、

高位(好意)に通じるものである。

高位とは、

高位の存在を意味していて、

高位の存在とは、

全ての一致から全てを生み出すもので、

それは、

行為(好意)から創造(理解)を生み出す、

と言うことで、

行為(好意)から創造(理解)を生み出すとは、

言霊から全てを生み出すことと同じ意味で、

本当のことを言えば、

言霊よりも深い意味を持つものが、

行為から生み出す、と言うことなのである。

何故なら、

行為とは、言葉に出す前のもので、

言葉に出す前のものとは、

意識性そのもので、

それは、

行為(高位)に繋がる意識性の高さと一致のみが、

可能にする領域だからである。

しかし現代とは、

好意(誠意)と言うよりは、悪意(欲望)から結果を生み出している。

それは、

低レベルを意味していて、

低レベルとは、

個人的思想から生まれている。

だからこそ、

個人とは越える必要があって、

その為にこそ、

行為(好意)は、高める必要がある。

好意とは、自身と他者を信じることで、

裏表がないこと。

悪意とは、自身と他者を信じきれないことで、

裏表を生むもの。

全ては、

一致感がないことが、

自身と他者を裏切る行為となり、

その行為そのものが、

一致感を無くすことで、

一致感を無くすことが、

虚像空間(自己都合)を生み出し、

自己都合を主とするものが、悪意の根元となる。

それは、

目に見える積み重ねは、

結果ばかりを主とするからこそ悪意(戦争)となり、

目に見えない積み重ねは、

成果を主とできるからこそ好意(平和)となる。

和平(話し合い)とは、

結果を主とした時点で終わる、と言うことで、

人間性(成長)とは、

結果を主としないからこその人間性(限界突破)なのである。

人間性とは、中身(意識性)を主とするもので、

意識性とは、成功ではなく、

失敗(真逆)を許容できるからこそ、

育つものである。

だからこそ、

全てを逆とするのは、

事実を知らないことから生まれている。

事実を知らないとは、

唯物論に囚われるからこそ、

勝ち負け(結果)に囚われ、

結果に囚われるからこそ、

事実ほど見逃すのである。

全ては、

裏表があるからこそ、

理屈(結果)ではなく、

裏表のない確かな意識だけが真の結果を導くのである。

それはまさに、

神聖領域を知ることである。

そう考えると、

理屈(手前)から生み出せる領域とは、

その全てが偶像で、

行動(奥行き)から生み出せる結果を、

実相の領域と言う。

それらのものは、

今までの理解の在り方を超越していて、

形を先にしていたら、

決してたどり着けない領域である。

それはまさに、

全ての転換を可能にしたものだけが到達できる、

全く新しい新境地である。

全く新しい新境地とは、

物質主体の現代性(マニュアル)の在り方から、

意識主体の古代性(オートマ)の在り方に切り替えることである。

マニュアルとは、形がないと何も得られない領域のことで、

オートマとは、形がなくても得られる領域のことで、

その違いは、

思考(一般)を先にするか?

それとも、

意識(達人)を先にするのか?

の違いで、

思考を先にするものは、マニュアルで終わり、

意識を先にするものは、奥底に辿り着けることで、オートマとなる。

オートマとは、

自動運転であり、

自動運転とは、

直感(答え)を肉体に下ろし形にできることで、

そこには最早、理屈(問い)は必要ない。

理屈は、後付けからなる物質(思考)で、

直感は、先付けからなる空間(意識)で、

意識(答え)があるからこそ生まれるのが、

物質(問い)だからである。

だからこそ、

直感(意識)を扱えることは、

全ての在り方を逆にし、

意識(答え)と行為(答え)を繋げられることは、

ある種の神格化を意味している。

その神格化は、

今までの生き方とは、

真逆を生きれることで開けるものである。

今までの生き方とは、

偶像からなる左回転で、

今後の生き方とは、

実相からなる右回転を理想としている。

これは、

確かな積み重ねを身体に落とし込めるからこそ、

実感を得れるもので、

確かな実感を得れていないものほど、

偶像(形)しか捉えられないのである。

それはまさに、

正反対しか知らないものは、

決して信じられないもので、

決して信じられないものを信じるには、

体験する以外にその認識を変える方法はない。

人は理解ではなく、

体験からなる体現を挟まないと、

本質的には何も変わらない、

と言うことである。

だからこそ、

変わるとは、

自ら生み出せるものだけが知りえる、

神秘領域の体現そのものである。

神秘領域の体現とは、

進化の秘宝を得ることによる、

ファンタジーの世界の幕開けのことである。

ファンタジーの世界とは、

理解を超越する為にあるような世界で、

体現性を深めたものだけが辿り着けるものである。

このことを、

主人公感を得る、と言うのである。

それを可能にするには、

意識を開き、

型(肉体)の中に宿る、

真の可能性を開く必要がある。

肉体の中とは、

次元からの時空の扉を開くことに意味があって、

時空とは、

中身と外見が一致するからこそ扱える光の領域で、

それは、

印を結ぶことや、

呪文を唱えることに通じるもので、

それらのものは、

行為を極めた先にある、

高位(一体化)からなる本当の力の現れである。

本当の力の現れとは、

意識と無意識と肉体を繋ぐことから生まれるもので、

それは、

無意識の中にある力動に意識と肉体を繋げることで、

力動とは、

一切合切の間違いがないからこそ繋がる力の源。

その力の源とは、

過酷の中でだけで見付けられる、

一筋の光を辿れることから生まれるものである。

その力は、

力そのものを生む、

生きる力で、

生きる力とは、

闇の中でも、光を自身の中で照らせることである。

その力のことを、

意識の目覚めから生まれる力動の兆し、

と言って、

その力動と意識を一致させて行くことが、

意識力からなる超能力の目覚めとなる。

ただ超能力とは、

かなり位が高いものなので、

簡単に扱えるものではない。

全ては、

小さな積み重ねから始まり、

その始まりは、

意識開発に通じる、身体改善に始まり、

身体の中に流れる気道を確保することで、

その気道を丹田にあるチャクラに繋ぐことが、

全ての起動元となる。

松果体や仙骨と言ったものは、

あくまでオプションであり、

オプションばかりを先にするからこそ、

何も起動しないのである。

オプションとは、

外側にあるもの全てである。

起動元とは、内側に存在する、

一筋の光である。

その一筋の光を掴むには、

センスは必須である。

センスとは、心であり、

心を扱えることが、センスの基礎である。

だからこそ、

センスを磨けることが全てで、

センスとは、並大抵のことをしていたら、

身に付かないものである。

並とは、物質的なことで、

並大抵とは、意識的なことである。

だからこそ、

全ての基礎は、心にあって、

応用は、身体にある。

身体とは、

身体に気を流せるからこそ、

力とは扱えるもので、

身体に気を流すことは、

身体に気を流せる身体を新たに作らなくてはならない。

しかし現代とは、

身体に全く気を流せない状態として作られている。

その理由とは、

理想とは逆のやり方をしていた、

と言うもので、

だからこそ、

その逆を正すことが、

起動元を目覚めさせるきっかけとなる。

そのやり方とは、

簡単に言えば、

今までの全てを手放せることである。

手放しとは、

中途半端にすることに意味はなく、完全に終えるからこそ、

全ての在り方は逆となる。

ただそれは、生半可にできるものではなく、

分かっていても直ぐにできるものではない。

何故なら、

今まで逆のやり方で構築していたもの程、

そのやり方そのものが、

意識と身体に深く刻まれていて、

その刻まれたものが、

全ての可能性を閉じるブロックとなっている。

分かりやすく言えば、

意識の滞りと思考の偏り、

身体の重さと固さや鈍さ。

そらのものは、

ブロックそのものである。

だからこそ、

そのブロックを外すことが、

全ての再構築を可能とする鍵となる。

それはまさに、

逆を積み重ねていたもの程、

目には見えない数多くのブロックが、

積み重なっていて、

そのブロックの量は、

過酷の連続である、と言うことである。

その過酷を乗り越えることで、

全ては少しずつ切り替わり、

気が流れる身体を新たに構築できる身体となる。

ただその構築には、

少なくとも3年はかかるものになる。

何故なら、

3の周期が、肉体改善の周期だからである。

重要なことは、

その間は、

自身の本当の力程、何一つ使えないもので、

ただひたすらに、

地味な作業の繰り返しとなる。

これはある種の修行期間と言えるもので、

この修行期間を終えないと、

本物ほど、何一つ動かせないのである。

それは、

そんな期間を持てることは、

そもそも奇跡に近く、

奇跡を体現するにはそれ相応の準備と代償を払う必要があることを意味している。

更には、

人によっては、

理想とは逆の身体を作り過ぎていて、

とてもじゃないが、

その清算が終わらないものさえいる。

身体とは、

物質的(外重視)な身体と、

意識的(内重視)な身体があり、

その在り方を完全に切り替えることが、

意識世界を表に出す可能性となる、

と言うことである。

身体を0から身体を作り治すとは、

そういうことを知ることから始まり、

今までの生き方と在り方を試されることが、

力を得ることの代償なのである。

まさにこれは、

苦難の道そのもので、

苦難の道とは、自身の間違いを清算することから始まり、

精算が終わった先には、

鍛練があり、

鍛練とは、

意識と身体を深め、

一致させることが基礎となる、と言うことである。

そう考えると、

0から身体を作り治すとは、

今までの考え方や在り方とは、

比較対象にならない様な莫大な事実を知ることで、

それはまさに、

驚天動地の嵐である。

今までの考えとは、

1から考えるからこそ、

何も分からないもので、

0から考えるからこそ、

全てが明るみになるのである。

だからこそ、

1から考えることは、

根(成長)も葉(核心)もないもので、

成長も核心もないからこそ、

元(真理)も子(真実)もないのである。

それはまさに、

驚天動地の事実である。

驚天動地とは、意識を知るからこそ生まれるもので、

意識とはまさに、

理解を超越する為のものである。

理解を超越するとは、

運命を切り開く、と言うことで、

運命を切り開くことは、

物質世界の終わりを告げるものとなる。

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