女の論理

春、花々に寄せて

 時は春だというのに、世界のあちらこちらで地域戦争がくすぶり続け、内政を見れば、議員による買収事件あり、女性議員の不倫あり、下着姿と見紛う女性ダンサーを侍らせた議員たちの懇親会ありと、次から次へと不適切な政治スキャンダルが吹き出す。加えて、カネにまみれた派閥のおどろおどろしい内実なども見え隠れして、ようやく巡りきた明るい春にはいかにも不似合いだ。もっと華のある論題はないものだろうか、と考えて、華と言えば花、と、かなり短絡的にこの稿の標題を決めた。
 花といっても、植物学的に花の生態を記述しようというものではなく(もちろんその知識もない)、 花が、人間の(実は私個人の)精神や心にどう有機的に作用するのか、というようなものを記述してみたい。

 ☆ アズマイチゲ

 かつて会津は深い雪国だった。シーズン中一度も雪かきをしないで済むようなここ数年の暖冬からすれば嘘のようだが、しかし、実に、かつて会津は深い雪国だったのだ。。
 早ければ十月末、遅くとも十一月下旬頃には初雪が降り、そのまま降り続けば数日後にはもう根雪になる。根雪になれば、翌年の三月末頃まで、冬籠もりの生活になる。この間の子供たちの遊びは、「へーほ(お手玉、語源不明)」 と「ギヤマ(おはじき、多分ギヤマンが語源)」ぐらいで、とても退屈だった。
 スコップで雪かきをしていたのでは間に合わないので、藁で編んだ巨大な長靴(「踏み俵」と呼んだ気がする)を履いて、膝丈か腰丈程も積もった雪を踏み固めて、家から表の道路までの出入りを確保する。この雪踏みは子供の仕事で、私も毎朝したものだ。
 地表の自然物や工作物は、どんなに固く鋭い角を帯びていても、雪が降り積もると、その稜線は、緩やかで伸びやかな、それはそれは優美な曲線になる。小川の両岸は、両方からせり出した積雪がくっついて陸続き(?)となり、家の外は広大な雪原となる。その雪原の表面には、鳥や小動物の足跡が点々と続き、それがあちこちで交差したりしていて、雪原に不思議な軌跡が描かれる。
 冬休みが終わって新学期が始まる頃、雪原の表面が、日中わずかに緩んだ温度で解け、夜間にそれが凍り・・・・を数回繰り返すと、 堅(かた)雪(ゆき) になる。雪原の表面に薄い氷が張った状態になり、子供の体重なら、広い雪原をぬからずにどこにでも行ける。この「堅雪渡り」が私はとても好きだった。普段なら、曲がりくねった道路を歩き、交差点を左右に曲折してようやく学校にたどり着くのだが、固雪渡りだと、「道路」などというものに干渉されずに、川でさえ自由に超えて、行きたいところに直線距離で行ける。学校などあっという間に着いてしまう。その痛快さがとても楽しかった。
 思えば、世の中は、既定路線とかいう曲がりくねった「道路」に何かと干渉され、また、超えるべき「川」のハードルは高い。直線距離で行ける堅雪渡りができれば、世渡りも苦労などせずとも良いものを。
 堅雪の頃を少し過ぎると、さらに雪原は不思議な光景を見せる。 
まだ深い積雪が残る里山や庭の樹々は、枝先に今にもしずり落ちそうな淡雪を乗せているのだが、 その幹の根元は、そこを中心に半径二・三十センチメートルほどの円形状にすっぽりと雪穴ができ、底の地面の黒い土がわずかに覗く。
 まるで木の幹が体温を持ち、その体温で幹の周りの雪をとかしているように見えて、不思議な気がしたものだ。今思えば、木々は、 厳寒を過ぎた頃には、早春の芽吹きに備えて根から水分や養分を吸い上げるのに大忙しなのだ。地下の水分は地表よりは幾分温かいから、幹の周りの雪を解かすのだろう。
やがて、広々とした雪原の中の南に傾斜した土手や、家々の南側の雪が解けて、黒々とした土が見え始め、次第に道路が顔を出し、家々の前庭の土が乾き始める。すると子供たちがどこからともなくはじけるように集まってきて、毬つき、石蹴り、ビー玉、一寸跳ね(ゴム跳び)、 パッタ(メンコ)など思い思いの遊びに興じる。

 北側傾斜にはまだわずかに雪が残る頃、暖かい日を浴びて野辺に出ると、あまり目立たない2センチほどの白い小さな花が咲いている。こちらに一輪、よく見るとあちらに一輪、というように、少し控え目に群生しているのだが、それぞれの一つ一つの花は、小さな花びらを力いっぱい放射状に開いて密(ひそ)やかに咲き誇っている。
この花を見ると、
 「ああ、やっと春だ」
 と、私は思う。晴れた日の午前中しか花を開かず、午後少し日が陰ると、もう花を閉じる。その閉じた花形も愛らしい。壺型に閉じたその花びらの中には、早春の妖精が潜んでいそうだ。
私のその「春告げ花」は、しかし、少し寂しげだ。この地ではあと半月も過ぎれば梅も桃も桜もほぼ同時に咲く爛漫の春なのに、時を先んじたばかりに、先んじている者の誇りと不安とにうち震えているようだ。
 その頃の私もまた、 あと数年もたてば、人生の春、青春期なのに、 時は至らず、はたして自分にも馥郁(ふくいく)とした青春が立ち現れるのか、否、自分は一体何者になるのかさえ見通せない不安に打ち震えていた。
私は長くその「春告げ花」の名を知らなかった。それが「アヅマイチゲ」と知ったのは大分後年のことだ。

 心よ翔べアヅマイチゲの咲く野辺に


☆ 桐の花

祖母は私が十歳の時に死んだ。私の人生の初めの十年、祖母の人生の終わりの十年を共有して、わずか十年、祖母と私は、共にこの世を生きた。 

そのわずか十年の間、祖母は私に多くのことを教えてくれた。
 祖母は私をこの上なく慈しんだ。私が学校から帰るのを、毎日屋敷に巡らされた低い石垣に腰を下ろして待っていた。私はその祖母の姿がとても小さく見えるほど遥か手前からそれを見つけるととても嬉しかった。
 私が帰り着くと、
 「腹へったか? 」
と言ってはよくおにぎりを出してくれた。味噌を塗っただけのおにぎりなのに、とても美味しかった。
 祖母のそばでお手玉など独り遊びをしていると、祖母はよく訪ねてきた友人に
 「私は孫の中でこの子が一番めげ(めごい)、大人しくて、素直で」
 というのだ。私は何だかこそばゆいような、しかし誇らしいような快感とともに、初めて、矜恃とも言うべき感覚を覚えた。

 ある日、祖母が畑仕事に行くのについて行った。畑には大きな桐の木があり、ちょうど花の時期だった。その散り落ちた薄紫の花を一つ拾い上げると、祖母は
 「かざ嗅いでみ」(香りを嗅いでごらん、の意。かざは香りの方言)
 と私に渡した。花の形としては珍しい壺型の花だった。その香りは微かに甘いいい香りだった。
 何故花の香りは人間をこんなに魅惑するのだろう、 何故山並みはこんなに美しい濃淡を見せるのだろう、何故夕日は一瞬あんなに美しく赤々と燃えるのだろう、・・・・
祖母は時折々に、自然の不思議な美しさ、人知も及ばない巧妙な自然の仕組み、その無窮の広大さにふと気づかせてくれた。
   、
祖母の死は、私にさらに多くのことを教えてくれた。
 私が小学校四年生の、年の瀬が近づいた頃、二学期の修了式で通信簿(当時は五段階評価)が渡された。低学年の頃は極々(ごくごく)普通の成績だったのに、その時の通信簿は、思わず二度見するほどの良い成績だった。私は嬉しくてそれを祖母に見せると、どこかに出かける身支度をしていたのに、祖母はその成績表を嬉しそうに眺め、とても喜んだ。
 祖母は、雪が深くなる頃になると、近隣の農婦たち数人と、毎年恒例で湯治に出かけていた。その日も、数日間の予定で近場の温泉に出かけて行った。
 だが、その数時間後に祖母はもう家に帰ってきた。何だか気分が優れないので、仲間の人たちに要らぬ心配をかけたくないから先に帰った、とのことだった。家族は皆いつもながらの祖母のその細やかな心配りに気を取られていた。

 その夜、祖母は死んだ。
 私は何が起きたのか理解できなかった。
 黒光りするほど磨きこまれた旧家の廊下の隅に立ち尽くすと、私の足元のその黒い廊下板の上に、さらに黒くぽつりと何かが滲んだ。それが自分の涙だと一瞬の後ようやく私は気づいた。ああ、私は泣いているのだ、と。
 当時はまだ土葬だった。葬列が今しも家を出ようという時、村人の誰かが、柩の蓋に釘を打ち付け、トーントーンと冷たい音が響いた。その時私は急激に、清冽な恐怖、わけのわからないいたたまれなさに、すんでのところで悲鳴を上げるところだった。
 死ぬということは、もう起き上がることはないのだと、当時十歳の少女は知っていたのだが、でも、万が一、万々が一、おばあちゃんが起きたら出られないから、釘を打つのはやめて、と叫びたかった。
 否、違う。体も、魂までも棺の中に閉じ込められて釘を打たれ、逃げ場も行き場もない、深い雪の下の、さらにその下の土の奥深くに埋められる。人間は誰でも、生きたその先には、もう、逃げ場も行き場もない暗い土中に行き着く他ないのだ、という恐怖に、悲鳴を上げんばかりだったのだ。
 父は、通夜の間も葬儀の間も、ただひたすらお酒を飲んでいた。立てなくなるほど飲むと泥のように眠り、目が覚めるとまた前後不覚になるまで飲み、そして眠った。その繰り返しを一週間ほど続けて、ようやく、起き上がった。
 ああ、大人はこんなふうに、耐えられない悲しみをそれでも耐えるのだ、と私は思った。

 祖母の死のその衝撃は、数十年後の今でも、否、私の全生涯に亘って大きな混乱を与えながら、同時に、進むべき指針をも与えてくれる。
 黒光りする廊下板に滲んだ涙の思い出は、今でも私を思い惑わせる。悲しいから涙が出たのか、涙がでたから悲しかったのか。そもそも、悲しみという実態のない感情と、涙という実体そのものとが、どこでつながるのか。
 人生は必然的に逃げ場のない一本道を歩き続けなければならないのだというそのことに、どんな意義があるのか。未だに押し寄せる懊悩も、思えば、祖母の死がその萌芽をもたらしたものだ。
 大学の専攻を決めるとき、生きていくことの不条理に思いあぐねて哲学を選んだ。それもまた祖母の死が指し示した指標だった。もう少し実業に繋がる専攻を選んでいたら、私はまた別の人生を送っていただろう。

 暖かい日差しが指す昼下がり、祖母はよく、庭に盥(たらい)を持ち出し、髪を洗っていた。洗い髪を品よく結い上げて、時には、いそいそとお酒のあてを準備して晩酌を嗜んでいた。
 祖母は、粋で美しかった。

 桐花落つその香を愛(め)でし祖母なりき

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