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御用地遺跡 土偶 29:姫宮墓方墳

安城市の獅子塚古墳から南北に流れる鹿乗川(かのりがわ)の西岸の堤防上の通路を南下し、南々西170m以内に位置する姫塚古墳(ひめつかこふん)に向かいました。

●後頭部結髪土偶

1MAP姫塚古墳

姫塚古墳は南北と東側が住宅に囲まれ、東側が畑になっており、全景は東側からしか撮影できなかった。
下記写真は南東側から撮影したもの。

1姫塚古墳

こちら側から望む姫塚古墳は古墳には見えず、畑に面した土手が平面になっていることから推測すると、畑にするために東側が削られているようだ。
土手には笹が生い茂り、そこに竹藪が覆い被さり、その上に松の高木が2本、幹を空に突き出していた。
12月下旬ということで、他の高木は落葉樹が主で、葉が落ちてしまっているか、紅葉していた。

北東側に回ると、墳丘が確認でき、古墳であることが認識できた。
墳丘の北側は常緑樹が主で、こちら側から見た松の1本が三叉の矛先のように枝が同じ場所から左右に分岐している、見たことのない枝ぶりをしていた。

2姫塚古墳

畑の脇から姫塚古墳と住宅の間を細い上り坂になっている路地が西に延びており、その坂道を上がっていくと、墳丘の北西の麓に教育委員会の製作した案内書パネル『姫塚古墳』が掲示されていた。

[市指定史跡    昭和40年11月3日指定]
桜井古墳群を構成する古墳の一つで、碧海台地端部に築かれています。この古墳はかつて円墳とも考えられていましたが、発掘調査によって南北28m、東西25m、高さ4mの方墳に復元されています。墳丘の西側から南側にかけては、幅7.3m以上の周溝が発見されています。出土遺物はわずかであるものの、古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と推定されます。
なお、地元では、姫塚古墳は都より配流された孝徳天皇の皇女綾姫の墓という伝承が残されています。明治12年(1879)の「姫小川村全図」には「ヒメ墓」とあり、この頃すでに伝承と古墳が結びつけられていたようです。墳頂には「姫宮墓」「白鳳十辛巳年」と刻まれた宝篋印塔(※ほうきょういんとう)があります。
                            (※=山乃辺 による)

《歴史から消された綾姫》
孝徳天皇は第36代天皇で、在位期間は645年7月12日〜654年11月24日。
皇居は現在の大阪市中央区に存在した難波宮(なにわのみや)。
孝徳天皇の皇女である「綾姫」の項目はWikipediaに無く、「孝徳天皇」の項目にも「綾姫」の名は見えず、有間皇子(ありまのみこ)の名しか記載されていない。
その理由は綾姫が『日本書紀』に記録の無い人物だからと思われる。
『日本書紀』は日本の正史が記録された書物であり、日本に、あるいは当時の権力者だった藤原氏に都合の悪い人物の記録は抹消されている可能性がある。
綾姫の愛人は乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子・中臣鎌足らに暗殺された蘇我入鹿だったのだ。

《姫小川にたどり着いていた綾姫》
ここ姫小川の地では綾姫に関する書物が愛知県安城市姫小川町の神社の社務所から出てきたとされているが、神社名は伏せられている。
現在の姫小川町には姫小川秋葉神社しか存在しないが、姫小川秋葉神社とは限らない。
この書物は現代語に翻訳されて『姫小川の由来』という書籍になっている。
この書物によれば、綾姫は有間皇子の姉であり、中央からは失脚させられ、姫小川の地に辿り着いた人物とされている。
姫小川の地元では、姫塚古墳は『姫小川の由来』の原書の記述と結びつけられ、綾姫の御陵とされているのだ。

《姫塚古墳は綾姫の墓》
姫塚古墳は周囲に幅7.3m以上という特殊な周溝の巡らされた珍しい方墳であり、いかにも特別な事情のある人物の御陵に相応しいものではある。
その『姫塚古墳』の案内書パネルの脇から墳丘上に向かう細い通路が設けられていた。

その通路は登り口は急だったが、登るに従って緩やかになった。
この墳丘は円丘にしか見えないのだが、案内書パネルに掲載された測量図を見ると、この方墳は北側の方の角がより崩れており、円墳と見誤れても仕方のない状況になっていることが判る。

3姫塚古墳

これまで、数多くの古墳に登ってきたが、削られていない墳頂がそのまま視認できる古墳は少数派だ。
墳丘上は、ほぼアベマキの葉で覆われている。
アベマキの葉は裏面が白っぽいので他のオーク(ブナ科 コナラ属の樹木)の葉と容易に見分けられる。
アベマキの葉と形状が最も似ているのはクヌギの葉だが、クヌギの葉の裏面は色が明るいが、白っぽくはない。

3Bアベマキクヌギ

アベマキ、クヌギともに大粒のどんぐりを生成するが、縄文遺跡からはどんぐり貯蔵穴が見つかっている。
そこで両樹木の名称と縄文人との関係を語呂合わせから、検証してみた。

アベマキアベ氏のイヌマキ(常緑針葉樹)
クヌギ狗奴国の樹

《奥州の安部氏》
「アベシ・アベウジ」と呼ばれる一族は複数存在するが、その中の旧い一族で、大和朝廷が成立する以前から存在したのが奥州の安部氏だ。
特に奥州は縄文時代早期から晩期まで、縄文人の多かった地域だった。
Wikipediaを見ると安部氏(奥州)の項目に「平安時代の陸奥国の豪族」と書かれている。
陸奥国とは、ほぼ現在の岩手県に相当する地域だ。
しかし、肝心のアベマキ(落葉樹)とイヌマキ(常緑樹)は樹種が異なり、しかも両樹木とも日本列島での生育地は関東地方以西であり、安部氏(奥州)とは結びつかない。

《中央の阿部氏》
関東地方以西のアベシとなると、中央豪族である阿倍氏(アベウジ:阿倍臣)ということになるが、Wikipediaには阿倍氏に関して「孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。」とある。
大彦命とは四道将軍(しどうしょうぐん)の1人で、『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)に北陸に派遣された人物であり、紀元前88年前後の人物とするなら、弥生時代までさかのぼる。

また、『ホツマツタヱ用語辞典』(駒形 一登)は大彦命の通称ヤマトアエクニの「アエ」が「アベ」に転化したとしている。

『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』で大彦命の系譜を縄文時代までたどるなら、
(https://ja.wikipedia.org/wiki/上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧)

神武天皇(BC660年即位)まで辿れば事足りる。
しかしながら、神武天皇の系譜が「アベオミ(阿部臣)」を名乗ったのはアベマキをトーテムとし、先祖から守ってきたアベマキ果樹園に由来するという記録が存在する訳ではない。

《アベマキの名称由来》
『庭木図鑑 植木ペディア』の「アベマキ/あべまき」の項に紹介されているアベマキの名称由来は以下のようなものだ。

アベマキという女の子のような名前は、「アベ」が岡山の方言で「あばた(=デコボコの意味)」、「マキ」は薪、つまり樹皮がデコボコした、薪にしかならない木という意味(諸説あり)。

「アベマキ」を女の子のような名前と感じている偏見があるように、諸説の一つであり、確定した説は存在しないようだ。

《クヌギの名称由来》
一方、「クヌギ=狗奴国の樹」説はどうなのか。
Wikipediaの「狗奴国」の項目には『邪馬台国についてのその他諸問題と検討の感触総括』の「狗奴国の実態─邪馬台国時代の中・南部九州」(宝賀寿男 2015年)に基づく
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/yama-ronsou/yama-kuna1.htm

以下の概説が紹介されている。

(※狗奴国は)3世紀の倭国で邪馬台国の尽きるところである南に位置する。その名称からも、元は奴国の分国であるという説もある。また志賀島出土の金印の鈕が蛇であったように、奴国は龍蛇信仰を持つ部族(海神族、広義の弥生人)の国家であったことに対し、狗(犬)奴国は犬狼信仰を持つ部族(縄文人)の国家である故に名づけられた名称と見る説もある。               (※=山乃辺 による)

解りにくい文章だが、「狗奴国は縄文人の系譜の国家である」ということなので、狗奴国がクヌギをトーテムとする国家であった可能性はありそうだ。
「クヌギ」の名称由来をネットで調べてみると、以下の説が紹介されていた。

1. 「国木」の意味(『YAHOO!きっず』)
2. 木の様子が クリに似ているので、“クリ似木”がクヌギに な っ た

「国木」説の「国」とは倭国のことだろうが、小生の「クヌギ=狗奴国トーテム」説に近い。

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この姫塚古墳の項目は次に続きます。

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