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今朝平遺跡 縄文のビーナス 51:足助川終点

愛知県豊田市足助町(あすけちょう)の足助橋から、足助川の右岸側に足助川と並行して西に延びる中馬街道(ちゅうまかいどう)に戻り、120mあまり南西に向かうと、レイラインテーマの記事で紹介した、だき地蔵(本町地蔵堂)が右手角地に奉られている前に出ました。〈https://note.com/38rashi/n/nde2e51e3fb8d〉
さらに西に50m以内進むと、南70m以内を流れている足助川に架かった飯盛橋から北に延びてきた道と中馬街道でT字になった交差点に出ました。そこで、飯盛橋に向かいました。

愛知県豊田市 足助川
足助川 足助町 中橋〜乙川・足助川合流点
足助川 足助町 だき地蔵〜乙川・足助川合流点

「飯盛橋」の漢字表記は足助町の他の橋と同じく、左岸の下流側の親柱に大きな文字で刻まれていた。

愛知県豊田市足助町 足助川 飯盛橋

当初、「盛」の字が「盛」よりも「戌」に近く、飯盛山の存在を知らなかったので、飯を食べてる犬(戌)に由来する橋名かと思った。
「盛」の字から「皿」が省略されているのだが、こんな省略の仕方が存在するのか、調べたが分からなかった。
上流にあった真弓橋の親柱と石材は異なるが、頭頂が頭巾形(ときんがた)で、頭頂のすぐ下にU字型の溝が彫ってあるのは同じだ。
真弓橋では親柱の脇から河川敷に降りられる石段が設けてあった。
対岸の河川敷には橋のたもとから下り坂が設けてある。

飯盛橋上から上流側を眺望すると、正面(下記写真)に真弓山が見えた。

足助町 足助川 飯盛橋上流側 真弓山/飯盛山

真弓山は頂きが2つある山で、ピラミッド形に見えるのはこの西側の近くから眺めた場合だけだ。
ちなみに上記写真右手が飯盛山の麓だ。
この部分の足助川は飯盛山にぶつかって上記写真左手からカーブしてきた部分で、水流が飯盛山にぶつかる左岸側(上記写真右側)に土砂が堆積して、雑草に表面が覆われている。
小型の河原石も左岸側に集まっている。
河川敷の遊歩道は右岸(上記写真左側)には残っているが、左岸側からは消滅していた。

足助町 足助川 飯盛橋下流側

川床の石は下流に行くほど減少している。
川筋は右岸に迫っている御所山の尾根にぶつかり、今度は左にカーブしていた。
足助川がカーブするすぐ手前に中橋が掛かっている。
飯盛橋から中橋まで100mあまりだ。
この100mの間の一部に両岸とも小型の河原石を積み重ねた美しい石垣が設けられている。

飯盛橋から再び中馬街道のT字路に戻った。
T字路から中馬街道を西に110m以内で、今度は左手角地に祀られたお天王はんの前に出た。
この、お天王はんも、だき地蔵の記事で紹介している。

お天王はんが角地にある十字路を南に向かうと、飯盛橋上から見えた中橋が足助川に架かっているので、南に向かった。

中橋の親柱も規格は飯盛橋の親柱と同じものだが、飯盛橋の親柱の麓が地面に「橋」の文字がくっつきそうなほど地面に潜っていたが、中橋の親柱は逆に柱の下に基壇が設けられ、その下にさらに1枚石が重ねられていた。

愛知県豊田市足助町 足助川 中橋

こちら側の地盤が下がったのだろうか。

この中橋の親柱の前の路肩に地元で伐採された材木を利用したものと思われるオリジナルの遊具やベンチが設置されていた。

愛知県豊田市足助町西町 遊具/ベンチ

足助町には材木店が複数存在するので、寄贈されたものだろうか。
それにしても路肩とは。
確かに足助町の街中には観光資源はあるが、住宅街に子供が遊べるような公園は見かけなかった。

中橋の上から上流側を見下ろすと、見えている飯盛橋と中橋の中間あたりから、川床の土砂の姿はすっかり消えていた。

愛知県豊田市足助町 足助川 中橋上流側

川床には中型の河原石が点在しているのみ。
右岸(上記写真左側)の河川敷上は完全にコンクリートでたたかれ、横幅が広くなり、堤防上に登る道と、川床に下がる河川敷に2分されている。
上記写真左端の二つの頂きが繋がっている山が真弓山だ。
真弓山の山名の由来に関する情報は見当たらないが、もしかすると、山頂が弓のようにシナっているのが由来だろうか。

下流側を見ると、雑草で覆われた左岸側(下記写真左側)とコンクリートで雑草をほとんど根絶やしにした右岸(下記写真右側)の様子が対照的だ。

足助町 足助川 中橋下流側

陽の当たらない側に雑草が生えているのに、陽の当る側なのに石垣にもほとんど雑草が見えないのは不思議だ。
この部分ではいよいよ右岸側の山、御所山の麓が足助川に迫り、足助川右岸の広い住宅街が終焉を迎えている。

中橋からお天王はんの祀られた中馬街道の十字路に戻り、中馬街道を西に向かうと、上記写真の右手に見えている部分の表側で、やはり中馬街道の両側の住宅は絶え、右手は8mほどのコンクリートで擁壁されたむき出しの崖となり、すぐ左手は足助川となった。
ただ、足助川沿いは潅木でさえぎられ、川筋は見えない。
むき出しの崖は住宅街から山道に入ってしまう感覚にさせる。
ここまで120m以内。
そこからさらに80m近く崖と足助川の間の中馬街道を走ると、足助川側に2軒の住宅が現れ、その住宅前を通り抜けると、中馬街道から足助川に下っていく分岐道があったので、その分岐道を下ってみた。
さっき前を通り抜けた住宅の裏面に下っていくと、40m以内で足助川に架かった唯一の素木の親柱と欄干を持つ、鉄筋造の橋があった。

豊田市足助町 足助川 落合橋

橋幅は1.5mほどで、歩行者用の橋のようだ。

落合橋上から足助川の上流側を見ると、右岸(下記写真左側)のコンクリートで叩かれた河川敷の遊歩道はまだ続いていた。

足助町 足助川 落合橋上流側

川床には土砂の堆積が多く、それを雑草が覆っている。
中橋から見えていた右岸の足助町の家はここからも見えている。

下流側を見ると、落合橋から10mあまり先で足助川(下記写真手前の川)は巴川(下記写真左右に流れている川)に流れ込んでいた。

足助町 足助川 落合橋下流側 巴川/巴橋

巴川は上記写真左手に架かっている巴橋の方が上流で、巴橋のすぐ上流側が紅葉の名所、香嵐渓(こうらんけい)となっている。
足助川と巴川の合流点の対岸は豊田市足助支所の裏面。
その右手は足助八幡宮の杜だ。

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足助川は落合橋下流側で巴川に流れ込んでいますが、今朝平遺跡(けさたいらいせき)から足助川をたどると、ここまで1.5km以内。縄文人は大型の川魚の採れる巴川までやって来ていたことは確実だと思われます。

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