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御用地遺跡 土偶 47:消された祭神ウツヒコ

安城市新田町(しんでんちょう) 市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)の南東1.1kmあまりに位置する白山神社を見つけました。イザナミが祀られている可能性があるので、寄って行くことにしました。

●後頭部結髪土偶

1MAP大岡白山神社

西側から白山神社に接近し、社頭のありそうな南側に回り込もうとすると、白山神社の社地の南西の角地に弁財天のようなものが祀られていることに気づいた。

予想通り、社頭は南側に位置しており、県道47号線から北に位置する白山神社の社頭に向かって住宅街の間を延びて来た一般道は白山神社の社頭で左右に分かれていた。
社地は玉垣ではなく場所によって幅の異なる水路で囲われており、その水路の外側に沿って、白いガードレールが巡らされていた。

社頭の南東側の住宅の脇にしか、モーターサイクルを駐めるスペースは無かった。
愛車を離れ、社頭に立つと、表道路から10m近く引っ込んだ場所に、派手な主塗りの両部鳥居が設置されていた。

1大岡白山神社鳥居

表参道には縁石は設けてあるものの、未舗装。
鳥居の数メートル奥には9段の石段が立ち上がり、石段の奥にやはり朱塗りの社殿らしき建物が見えている。

石橋で水路を渡り、鳥居をくぐり、石段を上がると、左右に広がったスペースがあり、特に参道は設けられていない。
石段の20mあまり先にあったのは神門で、左右に朱の透かし塀が延びており、透かし塀の外側には瓦を挟みこんだ築地塀(ついじべい)がつながっていた。

2大岡白山神社神門

築地塀は新しいもので、瓦を挟みこんだ新しい築地塀は珍しいので、まずは観に行った。

3大岡白山神社築地塀

白壁の間にバームクーヘンのように平瓦を挟み込んだものだが、このタイプのものだけを指す名称は無く、泥土をつき固めて造った塀全体を「築地塀」と呼んでいる。
「築地塀」とは出来上がった形式ではなく、工法の名称だという。
東京築地(つきじ)の場合も1657年(江戸時代)に起きた、明暦(めいれき)の大火で生じた瓦礫と土で東京湾を埋め立てて、つき固めて造られた土地であったことから「築地」と呼ばれた。
「築地(つきじ)」という地名は東京だけではなく、名古屋市や神戸市にも海に面した、もしくは面していた場所に存在する。

神門は瓦葺切妻造で、木部は朱で染められていた。

4大岡白山神社神門

神門から左右に延びる連子(れんじ)の透かし塀も瓦葺で、朱に染められている。

その神門をくぐると、再び縁石のみの表参道がまっすぐ奥に延びており、参道両側には3対の石灯籠が並んでいる。

5大岡白山神社拝殿

雰囲気は、ほぼ寺院だ。
表参道の突き当たり、10mあまり先に瓦葺入母屋造平入の拝殿。
向拝部には寺院建築のような唐破風屋根(からはふやね)が設けてある。

その唐破風屋根の下に入ると、軒下の蟇股(かえるまた)には雲に鶴の浮き彫りが装飾され、正面の板戸には徳川の丸に三つ葉葵の紋章が浮き彫りになっていた。

6大岡白山神社拝殿

三つ葉葵紋は紋章として使用されているのか、神紋になっているのか不明だが、この神社は徳川家と特別な関係のある神社であることは確かだ。

7大岡白山神社神紋

社内に掲示されていた3基の案内書を総合すると、徳川家康の祖父松平清康が1533年(戦国時代)に社殿を造営し、兵火によって消失した後、1604年(江戸時代2年目)に家康が社殿を再建し、社領百三十八石を寄進している。
自然に存在する葵は、以下のようなフタバアオイであり、

三つ葉葵は創作されたもので、自然には存在しない。
京都市で毎年5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる賀茂祭(下鴨神社と上賀茂神社の例祭)が「葵祭」と呼ばれているように葵は賀茂氏のトーテムであることから、徳川家が賀茂氏の末裔ではないかとする説があるのだが、徳川家は清和源氏(河内源氏)系新田氏流世良田氏(得川氏)を名乗っている。
三つ葉葵紋は徳川家と同族の本多家、酒井家、松平家の三家のうちのいずれにも最初に使用していたとする説があり、徳川家が将軍となったことで、三つ葉葵紋を使用していた上記三家が使用を辞退したものとされている。

向拝で参拝したが、社頭に掲示されていた教育委員会製作の案内書『三河三白山・大岡白山神社』によれば、戦国時代までの大岡白山神社の歴史は以下のようになっている。

この神社は大岡郷の鎮守神で、椎根津彦命を祀り、大岡明神と称していましたが、1570年代(天正年間)に白山媛神(加賀白山)と大岡忌寸(いみき/地主神)を合祀し、三河三白山社の一つに加えられました。

この『三河三白山・大岡白山神社』には現在の祭神が表記されていない。
上記のように「白山媛神(加賀白山)」を合祀したとあるのに、現在の祭神は白山媛神ではなく、予想してここにやって来たように、「イザナギ・イザナミ」となっているからだ(社頭に設置されていた板書『由緒略記』による)。

元の祭神であった椎根津彦命(しいねつひこ)とは『日本書紀』による名だが、神武東征において登場する国津神であり、イワレヒコ(神武天皇)の船路の先導者となった人物だ。
『古事記』には亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて神武天皇から槁根津日子(=椎根津彦命)の名を賜ったという。
日本神話と『ホツマツタヱ』での名は槁根津日子の名を賜る前の珍彦(うずひこ=ウツヒコ)となっており、『ホツマツタヱ』ではアマテルの4代の孫とされている。

椎根津彦命より後から合祀された白山神社の祭神白山媛神(シラヤマヒメガミ)が
伊弉諾命(イザナギ)・伊弉冉命(イザナミ)に切り替えられた時点で、国津神である椎根津彦命より天津神の先祖である伊弉諾命・伊弉冉命の方が格上であり、しかも天津神に国津神を合祀するのがはばかられ、椎根津彦命は本殿から消されたのだろうか。

地主神である大岡忌寸は初めて知った名だが、調べてみると、天智天皇から氏姓を賜った飛鳥時代の画僧恵尊(えそん)の子孫だという。

向拝から下がり、改めて向拝屋根を眺めると、唐破風には素晴らしい雲水の意匠の鬼飾が取り付けられていた。

8拝殿大岡白山神社鬼飾

そして、その鬼飾には五七桐の紋章が入っていた。
豊臣秀吉の庇護を受けていた神社は五三桐紋の使用が許されたが、五七桐紋となると、直接豊臣秀吉の一族との繋がりが考えられるのだが、境内に掲示された複数の由緒書にはそのことに関わる記述は見られない。
この鬼飾にはその上に突き出ている経巻部には小口に丸に三つ葉葵の紋章も入っている。
盆と正月が一緒に来たような鬼飾だ🙄
しかも、大きな桐紋は下部に、小さな葵紋は上位に配置してバランスを取っている。

本殿の東側に廻ってみると、以下のように何の変哲も無い、銅板葺流造の本殿だったが、

9大岡白山神社本殿

表参道の9段の石段の下に掲示されていた、教育委員会製作の案内書『大岡白山神社本殿』には、抜粋すると、以下のような説明があった。

「市指定建造物 平成十九年十一月三日指定
建造様式:木造平屋建 三間社流造 銅板葺

養老二年(718)の創建と伝えられ、一旦は兵火により消失したが、永禄十年(1567)に徳川家康が再建した時には屋根は檜皮葺(ひわだぶき)だった。
再建時の部材の残り具合から安城市最古の建物で、流造の本殿としては愛知県内7番目の古さだという。
再建時には渡殿は存在しなかった。


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豊臣秀吉と徳川家の庇護を受けてきたことからも判るように、ここ大岡白山神社は小生が安城市で遭遇した中で最も格の高い神社でした。それは、この後紹介する境内社の数の多さからも明らかになりました。

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