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御用地遺跡 土偶 10:木製農具

安城市 御用地遺跡の南々西6.4kmあまりの場所に位置する中狭間遺跡(なかはざまいせき)に向かいました。
「ハザマ」という地名は最も著名な「桶狭間」をはじめとして、愛知県には各地に点在しています。

●後頭部結髪土偶

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中狭間遺跡は、碧海台地の東縁に近い沖積地に立地しており、現在は標高約9mの平坦な畑地になっています。

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上記写真は中狭間遺跡を南側から北北東に向かって撮影したもので、左端の森は桜林小学校の校庭の森で570mほど奥に新幹線の高架が通っている。
桜林小学校は1979年の調査の2年後に建てられた学校だというが、中狭間遺跡は桜林小学校の周辺だという。
遺跡の案内板は見落としたのか、遭遇していない。
1956年(昭和31年)、ここに用水路を造る工事の際に弥生土器の破片を採集したのが、遺跡として認識されるきっかけとなった。

2中狭間遺跡発掘作業1

1979年の調査では、幅約9.5m~13.5m、深さ1.3m以上の南北に続く弥生時代後期から古墳時代前期の溝が確認された。
溝の中からは、木製品・建築部材・植物遺体などが見つかっているが、特に木製品が多量に見つかっているのが中狭間遺跡の特色かもしれない。
木製品には鍬先や鋤などの農耕具や

3中狭間遺跡膝柄股鍬

4中狭間遺跡一木鋤

竪杵・木錘・打ち具などのほか、

5中狭間遺跡竪杵

剣形・刀形・舟形といった祭祀具なども見つかっているが、上記の竪杵のフォルムは明らかに美しい形に仕上げようとして製作されたものだ。

中狭間遺跡のもう一つの特色は、他地域から持ち込まれたり、ここで他地域の土器を模倣して製作されたりした外来系土器が多く見つかっていることだ。
その土器の数は小片も含めて約120点あり、外来系土器の個体数は全体の5%に達する。
それらの土器の由来する地域は、尾張・美濃・伊勢・畿内・北陸・西遠江など広範囲な地域に及び、器種も豊富だという。
多量の外来系土器の存在は、他地域との交流が盛んであったことを示しているが、それは中狭間遺跡がこうした「地域間交流」の中核となる集落であったことを示している。
2002~3年の調査では、弥生時代前期の土器棺墓(甕や壺を棺として利用し、乳幼児や小児、または再葬による人骨を埋葬したもの)が見つかり、鹿乗川(かのりがわ)流域遺跡群の成立が弥生時代前期にさかのぼることが確認された。

中狭間遺跡の東側に面し、西鹿乗川と並行して北から南に堀内川が流れている。

6西鹿乗川

ここの場所で川幅は5m。
堀内川に並行して6mあまり東側では西鹿乗川が鹿乗川に合流していて、川幅は40m近くに広がり、両河川とも北から南に流れているのだが、堀内川はここからすぐ下流で西に方向転換している。

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ヘッダー写真はこの日の撮影で初めて気づいたものですが、横断歩道のゼブラ模様に製作日と思われるスタンプが押されていました。
安城市特有のものらしく、気づいて以降、全部チェックしたところ、もれなくすべての道路のペイントにスタンプが押してありました。

それはともかく、中狭間遺跡からすぐ南にある亀塚遺跡に向かうことにしました。




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