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麻生田町大橋遺跡 土偶A 104:蛇神の雨

この記事の写真の大半がピンボケに近い状態になっています。その原因となったのは、この日、8月の下旬、天気予報は雷雨が続いている中、お昼前になって急に晴天になり、気温も上昇したことから、急遽、連載中の牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)の流れている豊橋市石巻小野田町の町名に関係のある石巻山登頂を思いついたためです。豊橋市に存在する石巻山への道程を地図でチェックしていると、石巻山山頂下に「蛇穴」(読み不明)という表記がありました。これを見て、すでに取材済みで未発表になっていた縄文遺跡、嵩山蛇穴(すせじゃあな)のことだと思い込こみました(この時は山頂には上がっていない)。このために無駄な時間を消費してしまい、石巻山山頂への上り口に着いた時にはすでに4時半を過ぎており、しかも雨が降り出し、尚かつ石巻山山頂への登山道の多くが暗い森の中だったのです。

基本的に愛知県内の新しい場所に行く時は目的地の場所以外のことは調べたりしません。
出来るだけ、先入観念に影響されないで、観たいからです。
それで、石巻山の尾根の隣の尾根にある嵩山蛇穴に真っ直ぐ向かってしまい、その周辺で登山口を探し回ったのです。
優れた検索機能を持つGoogleMapも人の住居のほとんど無い山岳部では、まともに機能しないことから、嵩山蛇穴と石巻山の蛇穴は別のものだと気づくまで時間がかかってしまいました。

ようやく、石巻山を目指し、山頂下に石巻神社上社があることに気づき、石巻神社上社までは車道(県道379号線)があるようなので、愛車で、曲がりくねった1本道を登り始めました。
車道はウエットな部分があり、ところどころ、苔が生えており、雨が降ると怖いなと思いながら山道を登りました。
モーターサイクルにとって、舗装路に苔や砂利のような滑るものが乗っている場所がもっとも転倒しやすい場所なので、用心しながら登りました。

石巻神社上社下で道が2手に分岐していたので、急坂の方を上がって行くと、道の左右には山荘らしき建物が数軒あり、神社の石段の途中に出ました。
石段の下方を見ると石鳥居があります。
おそらく、それが石巻神社上社の社頭で、分岐のもう一方の道がそこにつながっているようでした。
そこで分岐点まで戻って、社頭を目指すことにしました。

分岐点に戻る途中、絶景の空き地があったので、そこから豊橋市街を撮影したのが下記写真です。

広がる豊橋市街の向こうには三河湾が見えます。

分岐点まで降りて、もう一方の道に向かうとすぐ、公衆トイレのある円形の駐車場に出ました。
石巻山登坂の人たちのための駐車場のようですが、車は1台も居ません。
その駐車場からは奥に向かう道が分岐していたので、その道に入って行くと、やはり大きな山荘があり、その前を抜けると道は登りになり、300m以内で、さっき上から見た石鳥居の前に出ました。

石造の明神鳥居で、注連縄が掛かっており、石段は上まで80段くらいありそうです。
鳥居の脇に愛車を駐めて、鳥居をくぐると、ポツンと雨が落ちてきました。
神社ではよくあることなので、いつものように鳥居から出てくれば、雨は止むだろうと、鷹をくくっていました。
この雨に神社が関係していなければ、石巻山に登ってくる車道に苔が生えていたことから、急いで山を降りて、出直していたと思います。

鳥居をくぐった途端に雨に降られた、これまでの体験のことを考えると、小生の場合は蛇神か、御先祖の関係した神社であることが多く、いつも鳥居を出ると嘘のように雨は止むので、心配はしていなかったのです。
石段を上がるにつれて雨粒が増え、小雨になってきましたが、ほんの3日前には山登りをして汗だくになってしまった体験をしたばかりで、雨に濡れることよりも、この蒸し暑い日に愛車に積んである雨ガッパを着て、また汗だくになってしまうことの方を心配し、雨ガッパを取りには戻りませんでした。

最初の長い石段を登りきると、踊り場があり、15段ほどの石段がありました。
それを登りきると、ニノ鳥居があり、コンクリートでたたかれた表参道が15mほど奥に延び、さらに20段ほどの石段が立ち上がっています(ヘッダー写真)。

その最後の石段を登りきると、20mほど奥に戸を開けっ放しにした銅板葺切妻造棟入の拝殿が見えた。

奥宮としては大きな建物で、由緒のある神社であることが解る。

拝殿内には石畳の土間があり、土間の奥に賽銭箱があり、拝所になっている。

軒下の扁額には「正一位石巻神社」とある。
壁は板壁で、外殻の木部はすべて葡萄鼠色に焼けている。
土間に上がって賽銭箱の前で参拝していると、写真なのか動画なのか、自動撮影された。
滅多に願い事はしないのだが、登頂の無事を祈願した。
境内には石巻神社上社に関する情報が無かったが、豊橋の観光ガイド『ええじゃないか豊橋』(https://www.honokuni.or.jp/toyohashi/spot/000057.html)には以下のようにあった。

社伝によれば(※創建は)孝安天皇の頃とも推古天皇の頃とも言われるが詳細は不明。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。豊橋市内唯一の式内社です。神社は石巻山の麓に本社(下社)が、中腹に山上社(上社)があり、山上社では旧暦1月14日深夜から15日明け方にかけて幻想的な管粥祭が、本社では4月中旬に鬼祭が賑やかに開催されます。」(※=山乃辺 注)

拝殿を出て左手に回ると、幣殿と本殿が連なり、幣殿以降は回廊で囲われている。
全ての屋根が銅板葺だ。

石巻山登山道の入り口は下記写真のように石巻神社表参道から分岐しているので、そこまで戻った。

分岐点の道標を見ると、山頂まで600mで20分だという。

雨は小降りだが降り続いており、愛車まで戻って雨ガッパを持って行くか迷ったが、やはり雨ガッパは忌避して、登山道に入った。

入り口部分は丸太で組んだ階段の段鼻だけが残っており、間の踏み面の土はすっかり流れてしまっている。

丸太で組んだ階段は入り口部分だけで、それを過ぎると、階段は無くなった。

路面には焼けた石灰岩が露出しており、そこに巨木が根を張っている。

5分も登ると2基の石碑と案内板のある場所に出た。

石碑は「石巻山城趾」碑と歌碑らしいが歌碑は読み取れなかった。

案内板は『石巻山城趾』のもので、以下のようにあった。

高井主膳正(たかいしゅぜんのしょう)の居城であったといわれる。
主膰正は、南北朝時代の高野朝方の人物といわれ、石巻山城や高井城(石巻本町字城の内)で北朝方の足利氏と戦い、敗れて山腹で自害したと伝えられる。その遺構は、標高356mの尾根に4段の連邦と帯状腰曲輪をみることができる。 近年、曲輪の一部は、遊歩道で削平されたが、市内の城址では、最も古い創建である。

(この項続く)

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平安時代に御先祖が統治を任された荘園が石川県の白山市にあって、その荘園趾を観に行ったことがあります。かつての荘園の中に3ヶ所の村社クラスの小さな神社があったので、その3社も巡りました。空は青空と雨雲が入り混じった状況で、移動する間は雨に降られなかったのですが、社内に入ると小雨が降り出し、参拝を終えて、次の神社に向かおうとすると、雨足が強くなり、拝殿の軒下で30分ほど雨宿りすることになりました。小雨になってきたところで、鳥居を出ると、雨は止みました。もちろん、雨が止みそうになったんで鳥居を出たには違いないのですが、同じようなことが3社続いたことから、「引き止められてるな」と感じるようになり、それ以後、日本列島の関係地を巡った際には、ご先祖と縁のあった神社かどうかを判定するのに、雨に降られるかどうかも、意識するようになりました。
ただ今回の石巻神社はご先祖とは関係の無い神社なのですが、祭神は大己貴命。つまり蛇神だったのです。

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