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麻生田町大橋遺跡 土偶A 67:水マキをマカセる

津島市に存在する津島神社の門内には非常に多くの境内社が存在しています。いつも拝殿の左脇から境内社を巡るのが習慣なのですが、津島神社の境内社のほとんどは社数が多いため、拝殿から本殿に至る社殿を取り囲むように配置されています。拝殿左脇から境内社を巡ったことから、この記事では拝殿の周囲を時計とは逆周りに門内境内の端に沿って巡ることになりましたが、この記事では社殿の西側と南側に位置する摂社と末社のうち、女神・龍神・水神を祀った末社を抜粋して紹介します。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP津島神社

2MAP津島神社西南境内社

拝殿から西に延びる回廊沿いには左隣の稲荷社の千本鳥居との間に挟まれた銅版葺棟入吹きっぱなしで奥行きの長い朱塗りの拝殿を持つ、摂社八柱社(やはしらしゃ)が祀られていた。

1津島神社摂社八柱社

摂社(せっしゃ)とは本社に付属する社(やしろ)で本社と同じ境内、あるいは境内外に祀られた社のことだが、レイラインAG上に存在する津島神社の境外社である今市場町の大圡社(おおつちしゃ)を以下の記事内で社名に関して紹介している。

また摂社に限らず、摂末社の境内社はその神社の本社の祭神と縁のある神を祀るのが基本であり、津島神社の摂末社は本社祭神の二柱である建速須佐之男命、あるいは大穴牟遅命(オオアナムチ=大国主命)と縁のある神々ということになる。
八柱社は尾張では多く祀られている神社だが「八柱神社」という名称は、神仏習合していた時代には八王子神社という社名で、祇園牛頭天王の8人の王子である八王子権現を祀っていた例の多い神社だが、神仏分離後は以下の社前案内板にあるように須佐之男命の五男三女の御子神を祀っている。

・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)     ・多紀理毘売命(タギリヒメ)
・天之菩卑命(アメノホヒ)                  ・市寸島比売命(イチキシマヒメ)
・天津日子根命(アマツヒコネ)         ・多岐津比売命(タギツヒメ)
・活津彦根命(イクツヒコネ)
・熊野樟毘命(クマノクスビ)

この案内板では五男三女の御子神に関して「須佐之男命が天安河(あめのやすのかわ)で天照大御との御誓約の時生まれた神」と説明し、寛文年間までは本殿相殿に祀られていたとしている。
拝殿は本殿まで短い渡殿で結ばれており、床以外の木部はすべて朱塗りになっている。

2津島社摂社八柱社本殿

八柱社の社頭からは右手の回廊の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根越しに、同じく檜皮葺流造の堂々たる本殿屋根が覗いていた。

3津島神社本殿

稲荷社の西側には本殿のある東に向って同じ規格の末社6社が祀られていた。

4津島神社末社熊野社群

一番手前が熊野社で表札には祭神として伊邪那美命とある。
建速須佐之男命の母神である。
六社の末社の最奥の社が龍田社で、祭神として支那津比古命(シナツヒコ)とある。
『古事記』では「志那都比古神」、『日本書紀』では「級長津彦命」という同音別字の表記になっている。
建速須佐之男命と同じく、イザナギ・イザナミの御子神である。
総本社に当たる内宮別宮の風日折宮(かざひのみのみや)に祀られている神だ。
表札の御利益には「風の守護神」とあり、これだけでは何の御利益なのか不明だが、元寇の役の際に神風を吹かせた神がシナツヒコとされていることに由来する御利益のようだ。

境内の南西の角にも銅版葺切妻造妻入拝殿と銅版葺流造の本殿を持つ摂社弥五郎殿社が祀られている。

5津島神社摂社弥五郎殿社

この摂社は寛文十三年(1673)に建造されたものだが、立派な大型の朱の鳥居まで持っている。
津島神社と弥五郎殿社の祭神を並べてみると以下になる。

・津島神社祭神=建速須佐之男命 大穴牟遅命
・弥五郎殿社=武内宿禰命 大穴牟遅命

弥五郎殿社社前板書の「由緒」には以下のようにある。

津島神社社家紀氏の祖神「武内宿禰命」を祀る。 南北朝時代、南朝の忠臣正行と共に四條畷の戦(正平三年 1348)にて戦死した社家堀田一族の堀田弥五郎正義が、生前当社を造替し、 大原真守作の佩刀(津島神社社宝 国重要文化財)を寄進したことから弥五郎殿社と呼称されている。

建速須佐之男命、武内宿禰命はともに紀氏の祀った神なので、関係のある存在であることになるが、武内宿禰命が景行天皇から仁徳天皇に至る五代の天皇に使えたことからすると、武内宿禰命は建速須佐之男命の子孫とみていいだろう。

この弥五郎殿社と向かい合うように境内の反対側の東側に摂社和御魂社(にぎみたまのやしろ)が祀られている。

6津島神社摂社和御魂社

社のみの摂社で宝暦十年(1760)に建造された銅版葺流造白壁に木部は総朱塗りの社だ。
社前案内板の「御祭神・由緒」には以下のようにある。

御祭神 建速須佐之男命和御魂(にぎみたま)

元は蘇民将来を祀る「蘇民社」と称され、姥が森(うばがもり:現海部郡佐織町町方新田)に鎮座されていたのを瑞垣内に移したと伝う。
正月四日に祭礼を斎行し、本社拝殿前に「茅の輪」 を立て一年の無病息災を願い輪くぐりを行う。
明治維新までは社領地の姥が森「姥社」に、祭礼後 「蘇民社」にお供された焼団子をお供えしていた。
「姥社」は、古伝に「素盞鳴尊来臨の時、此所にて老姫神詫を蒙りしゆゑ社を建つ」とあり、又昔此の所に岩窟があり、蘇民将来の末裔が住んでいたとも伝わる。

和御魂社の並びには和御魂社とほぼ同じ規格の社だが、やや簡素化された末社瀧之社(たきのやしろ)が祀られていた。

7津島神社末社瀧之社

表札には御祭神弥豆麻岐神(ミズマキ)とある。
弥豆麻岐神は大年神の系譜中に見える神で、羽山戸神(ハヤマト)が大気都比売神(オオゲツヒメ)を娶って生んだ、八神のうちの第四神とされている。
大年神の系譜の神々に関しては諸説あるが、弥豆麻岐神を蛇神の名を持つ大穴牟遅命(大国主神の別名)の側面の一つとみる説がある。
渡来系氏族である秦氏との関わりも指摘されており、この系譜の須佐之男命・大穴牟遅命の系譜に連なる『古事記』本文上のポジションに不自然さが指摘されており、その成立に、秦氏の関与や編纂者の政治的意図が論じられている。
一方で、『古事記』全体の構成からこのポジションに必然性を認める説もある。
「ミズマキ(弥豆麻岐神)」という神名に関しては灌漑のことを言うマカセ・マカスという語の四段活用の古形とみなす説もあり、津島神社末社瀧之社の表札の御利益にある「配水の神」は灌漑を意味しているとも受け取れる。
同じ「ミズマキ」でも、福岡県の遠賀川流域にある「水巻町」のような地名も田の配水(灌漑)との関連が考えられる。
また、「ミズマキ」を水を田に撒く宗教儀礼とする説もあり、弥豆麻岐神の姉である若沙那売神(ワカサナメ)が田植えの神とされていることからも、農耕との関連がみられる。

瀧之社の北側には1社のみ独立した形で瑞垣で囲われた、しかも拝殿両脇に祀られた境内社ではないのに拝殿と同じ南向きに祀られた摂社柏樹社(かしわぎのやしろ)が存在した。

8津島神社摂社柏樹社

社自体は摂社和御魂社と同じもので、建造も同じ年の宝暦十年(1760)となっている。
社前板書の「御祭神・由緒」には以下のようにある。

御祭神 須佐之男命奇御魂(くしみたま)

 由緒 天平元年(757)神託により須佐之男命を居森の地より此処に移したと伝えられ、社の後に古柏樹株が生えていたところよりこの名がある。
元は柏宮・柏社と云う。

「奇御魂」に関しては社前案内板に「不思議な働き」という解説文があるが、スサノオが行った不思議な働きというと、『古事記』に見える、ヤマタノオロチを退治するさい、ヤマタノオロチに狙われたクシナダヒメの姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治した後で櫛から元の姿に戻したという神話だろうか。
また、スサノオは『日本書紀』の一書第5では自らの体毛を抜いて木に変え、全国に植樹させており、自在に肉体を物体(両方とも木だ)に変容させている。

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この記事で紹介した境内社は津島神社社殿の西側と南側に祀られている境内社のほんの一部ですが、初めて行った参拝者の多くが境内社を見落とす場所が拝殿の東側にあり、次の記事ではそこに祀られた境内社と門外に祀られた摂末社を紹介します。

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