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本刈谷貝塚 土偶 8:末社市杵島社2

このページでは市原稲荷神社(愛知県刈谷市)の境内末社市杵島社(いちきしましゃ)の祭神、市杵島姫神の素性について紹介します。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

市原稲荷神社の境内末社市杵島社(いちきしましゃ)境内には市原稲荷神社の表参道方向からやって来ると、東向きの朱ノ鳥居から境内に入って、短い橋を南に渡り、鳥居から20m以内で市杵島社の社前に至る。
だが、市杵島社の入り口はもう1ヶ所あった。西側には西向きの石鳥居があって、その鳥居から一直線に市杵島社の社前に至る、コンクリートでたたかれた参道があった。

5市原稲荷神社境内末社市杵島社石鳥居

参道の両側は池になっており、池は2つに分かれている。
この鳥居から市杵島社の境内に入ると、市原稲荷神社の境内を経由することなく、一般道から直接境内に入ることができるようになっている。一般的にはこちらが表参道なのかもしれない。
参道に入る前に、社前の道から北側の大きい方の池を撮影したのが、以下の写真だ。

6市原稲荷神社境内末社市杵島社池

池の向こう側に朱の鳥居が見え、右側の参道の途中には朱の太鼓橋がある。この橋も欄干の擬宝珠は黒となっており、朱の鳥居と同じく〈赤と黒〉の結界(境)になっている。
朱の鳥居の結界と太鼓橋の結界の中に市杵島社は設置されている。
池の中には3種の花蓮、池のこちら側の参道脇には市原稲荷神社の名物のカキツバタが植えられているが、花期は終わったところだろうか。
こちら側の池の縁石の上で1匹の亀が甲羅干しをしているが、いったいどうやって石の上まで登ったのか。

こちら側の石鳥居をくぐって参道に入ると、参道の左右には複数種の蓮が開花していた。最初に目にしたのは右手の水面に浮かんでいる超小型の茶碗蓮(ちゃわんばす)だった。7月の初旬なのに一部の葉が紅葉しており、葉の直径が12cmくらいしかない。

7市原稲荷神社境内末社市杵島社蓮

根元の水中には鯉の幼魚のシルエットが見えている。花をUPで撮影してみると、尖った花弁が八重に重なり、色が幻想的なピンク色をしている。

8市原稲荷神社境内末社市杵島社蓮

ネット上の茶碗蓮図鑑で品種名を調べてみたが、該当するものが見当たらなかった。
ヘッダー写真の水生植物はカヤツリソウだ。

さらに参道を進んで朱の太鼓橋に至ると真正面奥に、こちら向きに市杵島社が設置されている。

9市原稲荷神社境内末社橋市杵島社

市杵島社は池に浮かぶ島に祀られる体になっている。

《市杵島姫神の素性》
市杵島社の祭神の名は市原稲荷神社の公式サイトでは「市杵島姫命」となっているが、歴史書と古史古伝では以下のようになっている。

   『古事記』=市寸島比売命(イチキシマヒメ)/狭依毘売命(サヨリヒメ)
  『日本書紀』=市杵嶋姫命
『ホツマツタヱ』=タナコ〈※カタカナ表記されているわけではなく、ヲシテ
         (発音記号のような神代文字)で表記されている〉

狭依毘売命は市寸島比売命の別名。
『コトバンク』にはイチキシマヒメの出生に関して「天照大神(アマテラスオオミカミ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の誓約において,アマテラスが,スサノオの剣を噛んで噴き出した霧によって出現した3女神の第3子。」と書かれている。
文中の「誓約(古事記では宇気比)」とは「うけひ=うけい」と読み、正邪を問う古代の占いのことだ。
『コトバンク』の説明でイチキシマヒメの両親がアマテラスとスサノオと認定してしまっていいのか疑問だが、そもそも記紀ではアマテラスとスサノオは姉弟なのだ。
そして、市原稲荷神社境内摂社にはアマテラスが祀られ、市原稲荷神社からもっとも近い神社、本刈谷神社本殿にはスサノオが祀られているのだ。
一方、学術的には偽書とされているものの、記紀の疑問点を解く要素も多く含む『ホツマツタヱ』ではアマテル(※アマテラスではなく、男性)とハヤコの子、タナコとされている。ハヤコとはアマテルの北局の内侍で、後にヤマタノオロチと化して、ソサノヲ(スサノオ)に斬られる人物だ。タナコ(市杵島姫神)が弁財天(蛇神)と習合したのは母親(ハヤコ)の血統だからと受け取れる。
ここ、市原稲荷神社末社市杵島社も、市原稲荷神社公式サイト(https://www.0-173.com/saijin.html)によれば、「市原の弁天さん」と呼ばれて親しまれているという。この弁天さんは安永3年(1774)に社地が開かれ、天明3年(1783)に第2代三河刈谷藩主土井利徳(としなり)がご神体を寄付したという。「神体」がどんなものなのか興味を惹かれる。

ところで、記紀の「アマテラスがスサノオの剣を噛んで噴き出した霧によって三女神が出現」という説明は非常に呪術的だが、この出来事の原型だと思われる記述が『ホツマツタヱ』の「天の巻7 ノコシフミサカオタツアヤ(遺し文 清汚立つ文)」にある。
【ホツマツタヱ解読ガイド】(https://gejirin.com/hotuma07.html)でその原文と現代語訳文を見てみると、以下のようになっている。

〈原文〉          〈現代語訳文〉
トコミキニ ハヤコオメセハ 床酒に      ハヤコを召せば
ソノユメニ トツカノツルキ その夢に     十握の剣
オレミキタ サカミニカンテ 折れ三割     三つが寄り集まって
ミタトナル ミタリヒメウム  一つにまとまる そして三つ子の姫を生んだため
タノイミナ         タケコ・タキコ・タナコ

※床酒にハヤコを召したアマテルはここでは省略した文頭に「キミ(君)」という呼称で登場している。
※「タノイミナ(「タ」で始まる諱)」の諱(イミナ)とは本名のこと。古代には本名を口に出すことをはばかったのでイチキシマヒメという名を使用した。しかも、イチキシマヒメの時代には漢字は日本に存在しなかったろうから、記紀の、それぞれの編纂者が漢字を当てたものだ。『古事記』の名前の方が漢字の字数が多い傾向があるのは、口承名を初めて漢字に音訳したからだろう。『ホツマツタヱ』のミタリヒメ(宗像三女神)の本名はすべて「タ」から始まっているが、記紀名ではイチキシマヒメだけそうなっていない。

タケコ=田心姫神(タゴリヒメ)
タキコ=湍津姫神(タギツヒメ)
タナコー市杵島姫神(イチキシマヒメ)

タケコとタキコは2音だけ記紀名に流用されているのが解る。

《サカの謎》
ところで、記紀と『ホツマツタヱ』では、まったく解釈の異なる点がある。『ホツマツタヱ』では三つに割った十握の剣を「サカミニカンテ」とあるが、記紀の原文では以下のようになっている。

ホツマツタヱ=「サカミニカンテ」
   古事記=「佐賀美爾迦美而」
  日本書紀=「〓然咀嚼(さがみにかみて)」〓は歯編に吉

『ホツマツタヱ』は濁音を使用しないものの、『古事記』とは音訳されているだけで共通している。『日本書紀』だけが意訳して古事記とは別の漢字を当てている。
記紀の訳者たちは意味不明なまま「さがみにかみて」と訳したり、『コトバンク』のように単に「噛んで」と訳したもの、“Wikipedia”のように「噛みに噛んで」と訳したもの、他に前文から「水にすすいで,噛んで」と意訳しているものがあるが、【ホツマツタヱ解読ガイド】の運営者、駒形 一登氏は上記の現代語訳のようにまったく別の解釈をしている。そして、確定していないものの、さらに1歩進めた解釈も提案している。「サカム(さがみ)」を「相模」ではないかとしているのだ。さらに「カンテ」を「噛んで」ではなく「寄り集まって」と訳している。つまり「さがみにかみて」を「相模に集まって」という訳も提案している。実は相模には宗像三女神が祀られている場所があるのだ。それは江ノ島の江島神社(えのしまじんじゃ) だ。江島神社では宗像三女神は弁財天と習合しており、日本三大弁財天の一社となっている。
『ホツマツタヱ』の記述は記紀と異なり、呪術的ではないのだ。

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小生の歴史観は『方舟に乗った日本人』などの著作で知られる在野の言語学者、川崎真治氏の影響が大きい。栗本慎一郎氏も、影響を与えてくれた一人だ。お二人が著作を著した時代には中近東の古代民族と日本人を結びつける発想は「眉唾モノ」とみられる傾向が大きかったが、様々な陰謀論がポピュラーになってしまった結果、今や何の違和感も無くなっている。Times They Are a-Changinなのだ。



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