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麻生田町大橋遺跡 土偶A 79:山を創った大山咋神

愛知県岡崎市を通っている旧東海道沿いに奉られた藤川宿十王堂から旧東海道を北西に向かい、440m以内で北側を通っている国道1号線に向かう旧東海道から離れ、西に向かう県道327号線とマイナーな道を経て、1.5km以内で蓑川町(みのがわちょう)の松尾神社社頭に到達した。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP蓑川町 松尾神社

2MAP蓑川町 松尾神社

松尾神社社地は東側に松尾公園が面しており、南東を向いた社頭を通っている道路沿いにはネモフィラ・メンジェシー(ヘッダー写真)と下記写真のシバザクラが花を着けていた。

1シバザクラ

やってきた日は4月の上旬で、松尾神社境内の桜も満開になっていた。

松尾公園には周囲に金属ネットの塀が巡らされていたが、松尾神社の社地と周囲の道路との間には玉垣も塀も無かった。

2蓑川町 松尾神社社頭

道路から4mほど奥に左右対になった幟柱が建てられており、幟柱の奥4mほどの場所に石造明神鳥居の建てられた旧い踊り場が設けられている。
そのコンクリートでたたかれた踊り場は2段しか無いが石段を持ち、先に上り階段は無いので、奥行き4mほどの台になっていた。
その踊り場は設けられているというよりも、残されているといった方が正確なようだ。
踊り場の前後には参道と言えるようなものは特に設けられてなく、整地された赤土の境内が広がっている。
社頭脇には「村社 松尾神社」と刻まれた社号標も残されていた。
これまで、かなりの数の神社を巡ってきているが、総本社の松尾大社を別にすれば、松尾神社に遭遇したのは初めてのことだ。
祭神は別にして「松尾神社」名義の神社は本当に珍しい。
石鳥居の正面奥30mあまりの場所には瓦葺の拝殿が立ち上がっている。

石鳥居をくぐって拝殿に向かうと、拝殿は30cmほどの高さの土壇上に設置されており、入母屋造平入で正面は格子窓の付いた香色の舞良戸が立てられ、壁は同じく香色で、舞良子を張った板壁で覆われていた。

3蓑川町 松尾神社拝殿

拝殿前に上がって参拝したが、この神社の板書は拝殿右側面の軒下に横長9m近い長さの扁額として以下の内容が掲示されていた。

《鎮座地》
岡崎市蓑川町薮下十九番地

《祭神》 大山咋命(おおやまくいのみこと)
     迦具土命
     (秋葉社合祀による)

《由緒》
創立年代不明であるが明暦年間(西暦655ー67年)郷士三浦五左衛門は常に神を信仰し郷民と督励して田畑の開発に尽くした。住民も益々豊かになって睦み合い郷士の命をよく聞いてよく仂いた 五左衛門は神様のおかげと喜び住民の家々の幸福と守護のために屋敷の中に堂宇を建て山城国(今の京都府)葛野郡松尾明神を奉斎して松尾大明神として郷民と共に崇拝したという。寛延元年(西暦1648年) 代官烏山牛之助当地と巡視の折参拝し御神徳を悦び今の場所に本殿を再建し、拝殿も建立し遷座し奉ったという。その後拝殿が壊れたので宝暦元年(西暦1751年)四月庄屋組頭等氏 子に相談して拝殿を、さらに寛政六年(西暦1794年)大改築を行った明治新政に当たり明治元年(西暦1868年)に《松尾神社》と改称された。
明治五年(西暦1872年)十月十二日村社に格付されて以来この日を祭礼の日とした。
明治二十六年一月(西暦1893年)本殿を再建する。明治四十二年六月二十一日当時入メキにあった無格社秋葉社(迦具土命)と中屋敷にあった無格社石神社(祭神不明)を合祀した。大正四年(西暦1915年)幣殿と渡殿を新築した。大正四年十一月九日政府から神饌幣帛料供進の神社に指定された。

《建物》
本殿 縦一間二尺、 横二間 大破風造前高覧付 瓦葺
幣殿 縦三間、 横二間 妻造瓦葺
渡殿 縦一間、 横三間 妻造瓦葺
拝殿 縦二間、 横三間 入母屋造 瓦葺

この由緒からは三浦五左衛門がなぜ松尾大明神(現蓑川町 松尾神社)を祀ったのか不明だが、松尾神社総本社(山城国 松尾大明神)の公式ウェブサイト(http://www.matsunoo.or.jp/about01/)によれば、大山咋神は山城・丹波の開発につとめられた神であり、丹波国(現山陰道)が湖であった大昔、住民の要望により保津峡(ほづきょう:現京都府)を開き、その土を積まれたのが亀山・荒子山(あらしやま)となったという。

そのおかげで丹波国では湖の水が流れ出て沃野ができ、山城国では保津川の流れで荒野が潤うに至った。
飛鳥時代以前の太古の時代から山城国一帯の住民が松尾山の頂上近くに存在する磐座(下記写真)に山霊を祀り、生活の守護神として尊崇したのが始まりとされている。

5松尾大社磐座

5世紀(古墳時代中期)になると、秦氏の大集団が朝廷の招きによって山城国に来住すると、その首長は松尾山の神(松尾大明神)を一族の総氏神として祀った。
秦氏は近年の研究では新羅の豪族とされているが、新羅建国は倭人によるものとする説も強くなってきている。

下記写真は拝殿から本殿に至る写真だが、本殿は覆屋になっている。

4蓑川町 松尾神社

本殿の右手には瓦葺切妻造平入で白壁を持つ覆屋に縦格子窓の付いた舞良戸が閉め立てられていた。

6境内社御鍬社覆屋

これが拝殿板書にある『境内神社 御鍬社』で、祭神は伊勢神宮の祭神豊受姫命となっている。
文化三年(西暦1806年)に建立され、昭和五十四年(西暦1979年)に再建されたもの。

屋内には流造総素木の御鍬社(おくわしゃ)が祀られていたが、扉の前には「天照皇大神宮」のお札と榊に挟まれて、対になった御神灯と2体の神像らしきものを納めた素木の箱が置かれていた。

7境内社御鍬社

大黒&恵比寿像みたいだが、一部しか露出しておらず、確認はできなかった。

境内の西側には1本だけだが、八重桜の大樹が満開になっていた。

8蓑川町 松尾神社桜


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蓑川町 松尾神社と松尾公園は最近整備されたものらしく、Google地図のストリートビューでチェックすると、周囲の道路はまだ現在のように舗装されておらず、ネモフィラ・メンジェシーとシバザクラを植えた花壇も設けられていません。

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