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麻生田町大橋遺跡 土偶A 119:初めての樋門名

豊橋市の馬越長火塚古墳群(まごしながひづかこふんぐん)から馬越長火塚古墳群への登り口になっている城下橋(しろしたばし)に戻り、城下橋の上流60m以内から牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)沿いになった県道69号線を南に向かっていると、城下橋の下流230m以内の牟呂松原幹線水路に樋門(ひもん)が存在した。

樋門の上流側の施設の一部である牟呂松原幹線水路上にコンクリートで蓋をされた部分から上流側を見下ろすと、牟呂幹線水路と松原幹線水路の間の分割壁の一部が取り払われていた。

分割壁が取り払われているのは新城市部分以来2ヶ所目で、いずれも樋門のすぐ上流という共通点があった。
牟呂松原幹線水路の流れている丘陵上から丘陵下の田畑に水を落とす目的があり、上記写真左端の丘陵下に沿って流れている松原幹線水路の水だけを使用することになってしまうので、牟呂幹線水路の水量とバランスを取るために、分割壁を取り払っているのだろう。

よく見ると、分割壁にはガイドが付いており、外した分割壁を戻すことができるようになっているようだ。
上記写真中央の水路、牟呂幹線水路と右端の用水路の間の分割壁にはコノ字形の取っ手が付けてあり、その分割壁の上に外した分割壁を乗せておけるようになっているようなのだが、外された分割壁は見えない。
牟呂松原幹線水路には水路の左右の壁に取っ手が取り付けられて、上流に向かって並んでいる。

一方、同じ蓋の上から樋門のすぐ下流側を見ると、すでに牟呂幹線水路と松原幹線水路の間の分割壁を外す部分は無く、左岸側(下記写真左端)にあった用水路は絶えていた。

下流側には上記写真のように牟呂松原幹線水路上に橋のように架けた白い鉄パイプの手摺りを持つ水門関連の施設があり、その手すりに4本の取り外した分割壁が掛けてあった。
この橋のような施設には、この施設を支える左端と牟呂松原幹線水路中央の分割壁を高くした2つの足下駄、それに右側のコンクリート護岸の壁にはかつて存在した水門を通すガイドになるスリットが設けられている。
かつてはここには水門施設が存在し、現在は撤去されているようだ。
その撤去された水門跡の手すりが、取り外した分割壁置き場になっているようだ。
分割壁を手すりに掛けてあるのは、分割壁をコンクリートの床上に置くと雨が溜まったりするので、乾きやすい手すり上に掛けているのだと推測した。
そして、この取り外した分割壁置き場のすぐ先から牟呂松原幹線水路は右にカーブしているのが観て取れた。
牟呂松原幹線水路の右側は県道69号線である。
その下流側を見ようと、樋門の脇を抜けようとすると、ここまで1ヶ所も無かった樋門の名称を示すプレートが初めて樋門に取り付けられていることに気づいた。

この樋門は「城下排水樋門」という名称であることが確認できたが、この樋門だけプレートが取り付けられているのは城下町によるものなのかもしれない。

ついでだが、城下排水樋門のすぐ下流のワイアーネット塀には「牟呂幹線水路(92地点)」のネームプレートも取り付けられていた。

このネームプレートはこれまでも、時折、点在していたのだが、「牟呂松原幹線水路」となっておらず、地点の数字の意味も不明で、紹介すると、混乱を招くので、ここまで紹介できなかったのだ。
ここでは松原幹線水路も流れているのに「松原幹線水路」の名称が省かれている意味が解らない。
元はプレートどおり、牟呂幹線水路しか流れていなかったとか、複数の原因が考えられる。

下記写真は城下排水樋門を真横の69号線から撮影したものだが、地表からはスライドゲート部分は見えていない。

城下排水樋門下流側を牟呂松原幹線水路のワイアーネット塀越しに覗き込むと、牟呂松原幹線水路は69号線の下に流れ込み、暗渠となっていることが判った。

この暗渠の地表は下記写真のように三叉路になっており、右手前の丘陵上に延びる69号線と左手前の丘陵下に降る脇道に分かれ、二つの道路の間で牟呂松原幹線水路はふたたび開渠になり、脇道とともに丘陵下に降っている。

上記写真右端に写り込んでいるのが城下排水樋門。

三叉路の暗渠の出入り口上から下流30m以内に架かった権現橋を見下ろしたのが下記写真。

脇道に降って権現橋上から上流の暗渠の出口を撮影したのが下記写真だが、消滅した左岸の用水路は無くなったままだ。

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権現橋から見上げた丘陵上を通っている県道69号線からは権現山古墳群に向かう枝道が東に延び、さらに丘陵上に向かっていました。

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