麻生田町大橋遺跡 土偶A 112:杉の木と祭神
豊橋市の石巻山に最初にやって来た時には、登山道(県道379号線)入り口に東側からやって来たので、石巻神社下社がどこにあるのか知らなかったのだが、名古屋に向かって帰途に就くため、登山道入り口から西に向かっている時、右手に位置していることに気づきました。ただ、その日は雨中であり、すでに暗かったので、前を通り抜けただけでした。
今回、石巻山を降りたのはA.M.8時前後だったのですが、名古屋市内で雨が降り出す予定まで、まだ余裕があったので、石巻神社下社(以下、「石巻神社」)に参拝していくことにした。
愛車は、歩道より、石巻神社の境内に突っ込んだ方が邪魔にならないと判断して、ブロック塀の隙間から境内に突っ込みました。
社頭に回ると、ブロック塀の親柱脇に案内板『延喜式内社 石巻神社』が掲示されていて、下記図版右の石巻神社の神紋「三重丸に一本杉」が紹介されていた。
杉紋では大神神社(おおみわじんじゃ)の「三本杉」紋が知られているが、大神神社の祭神三柱(上記図版内)は主祭神の大物主大神(オオモノヌシ)と、配祀された大己貴神(オホナムチ)と少彦名神(スクナヒコナ)が祀られており、この三柱の暗喩が3本の杉に託されている。
一方、石巻神社の祭神は大己貴命の一柱のみだ。
必然的に杉は1本だけだが、三重丸には元になっている三柱の暗喩が託されていると解釈することもできそうだ。
ちなみにダイダラボッチ伝承で石巻山と対になっている本宮山にも大己貴神が祀られている。
案内書の内容は以下。
上記案内板の向かい側のブロック塀親柱脇には頭頂が頭襟形(ときんがた)の「式内 石巻神社」の社号標が建てられている。
塀内10m以内には形式だけの短い玉垣を持つ門柱、そのすぐ先には石造八幡鳥居が建てられ、境内には右手から社叢が覆いかぶさっている。
玉垣の脇にはもう一つの案内板『石巻神社の大般若経600巻』が掲示されていた。
石鳥居は樹液で上部が黒っぽく染まっており、柱の両側には榊が植えられていた。
鳥居の先、正面10mあたりにはには三河では珍しい蕃塀(ばんべい)が設置されている。
蕃塀は銅板葺切妻屋根が葺かれ、木造で連子窓(れんじまど)が左右いっぱいに張られており。屋根越しに拝殿の瓦葺屋根の妻がのぞいている。
蕃塀を迂回すると、10mあまり正面奥に切妻造吹きっぱなし棟入の大きな拝殿が立ち上がっていた。
境内には氏子らしき人が二人いて、メンテナンス作業をしていた。
拝殿の軒下を見上げると、「正一位石纏(いしまき)神社」と浮き彫りされた銅の立派な扁額が掛かっていた。
拝殿前で参拝して、奥を見ると、本殿ではない建物が正面に見えていた。
拝殿の右脇に回ってみると、銅板葺屋根を持つ瑞垣をめぐらした神門があり、瑞垣内に瓦葺の祭文殿らしき建物があり、再奥には銅板葺両流造平入りの珍しい形式の本殿の屋根がのぞいていた。
拝殿の向かって左脇には瓦葺入母屋造棟入の社が祀られていたが、情報が見当たらず、何が祀られているのか不明だった。
氏子さんが作業をしていなければ、聴けたのだが。
この不明の社の左隣に表参道の方を向けた、瓦葺切妻造平入で合板の壁をめぐらせ、正面を開口にした境内社覆屋が設置されていた。
屋内を見ると、まだ新しく、総素木造になっており、奥の棚の上に5棟の境内社が祀られていた。
中央に天神社。
向かって右に伊雜皇社(いぞうこうしゃ)と稲荷神社。
向かって左に山神社と昨神社が祀られていた。
伊雜皇社の「雜」(訓読み:まじえる)の文字は常用漢字の「雑」で代用されることが多いが、文字は異なる。
伊雜皇社の総本社は志摩国(現三重県志摩市)一宮(別説もある)の伊雑宮(いざわのみや)で、主祭神は天照大神の別名である天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみ)とされている。
祭神を一般的な天照大神とすると、総本社は伊勢神宮内宮ということになるのだが、天照坐皇大御神御魂となると、皇大神宮別宮の伊雜宮ということになるが、伊勢平氏(小生の先祖)の地盤だった伊勢国は源氏と対立した折には源氏側に付いた熊野三山とは対立関係にあり、もっとも被害を受けたのが伊雑宮であったことに起因する複雑な事情があるようだ。
(この項、終り)
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石巻神社では晴天だったが、雨に降られないよう、一目散に名古屋市内に向かいました。10時半には名古屋市内に入ったのですが、結局、その日、名古屋市内に雨は降りませんでした。人工衛星を幾つも打ち上げているのに予報がまったく当たりません。何に使ってるんだか。中国軍機の領海侵犯が増えていることと、予報外れには相関関係があるのだろうか。
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