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麻生田町大橋遺跡 土偶A 112:杉の木と祭神

豊橋市の石巻山に最初にやって来た時には、登山道(県道379号線)入り口に東側からやって来たので、石巻神社下社がどこにあるのか知らなかったのだが、名古屋に向かって帰途に就くため、登山道入り口から西に向かっている時、右手に位置していることに気づきました。ただ、その日は雨中であり、すでに暗かったので、前を通り抜けただけでした。

今回、石巻山を降りたのはA.M.8時前後だったのですが、名古屋市内で雨が降り出す予定まで、まだ余裕があったので、石巻神社下社(以下、「石巻神社」)に参拝していくことにした。
愛車は、歩道より、石巻神社の境内に突っ込んだ方が邪魔にならないと判断して、ブロック塀の隙間から境内に突っ込みました。
社頭に回ると、ブロック塀の親柱脇に案内板『延喜式内社 石巻神社』が掲示されていて、下記図版右の石巻神社の神紋「三重丸に一本杉」が紹介されていた。

杉紋では大神神社(おおみわじんじゃ)の「三本杉」紋が知られているが、大神神社の祭神三柱(上記図版内)は主祭神の大物主大神(オオモノヌシ)と、配祀された大己貴神(オホナムチ)と少彦名神(スクナヒコナ)が祀られており、この三柱の暗喩が3本の杉に託されている。
一方、石巻神社の祭神は大己貴命の一柱のみだ。
必然的に杉は1本だけだが、三重丸には元になっている三柱の暗喩が託されていると解釈することもできそうだ。
ちなみにダイダラボッチ伝承で石巻山と対になっている本宮山にも大己貴神が祀られている。

案内書の内容は以下。

当社の創建は第六代孝安天皇の時代とも、第三十三代推古天皇の時代に聖徳太子の建立とも伝えているが、それを証するものはない。 ただ、屹立する石巻山の山容は古来より特別な崇敬の対象であったことは推測できる。奥の院の屏風岩とその下のコノシロ池の湧水は雨乞いと豊作祈願の伝承があり、農耕社会の信仰を伺わせる。
神階は『日本文徳天皇実録』によれば仁元年(851)十月乙巳の日に従五位下を授けられている。延喜五年(905)第六十代醍醐天皇の命により編纂が始まった『延喜式』巻九の「ハ名郡一座小」として当社が列せられ、三河国四大社(猿投、砥鹿、知立、石巻)の一つとされる。
当社神主大木家に伝存した「石巻宮織女帳」に応仁二年(1468)より永禄五(1562)までの祭礼の記録があり、室町時代には神ヶ谷、多米、長良、和田、下条、高井、嵩山、月ケ谷、浪の上の九ケ村が石巻神社の二月の祭に「祝」と して参加している。信仰圏が現在の神郷、金田、長彦より広範囲だったことがわかる。
江戸時代には御朱印領が五石になったが、吉田城の良(うしとら)に位置することもあり、城主の松平家から崇敬された。明治維新により郷社になったが、現在は社格制が廃止になったので、氏子だけでなく東三河の主要な神社(市内で唯一の式内社)として崇敬されている。

御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
例大祭 鬼祭り (里宮社 四月第一土曜日、日曜日)
 神事 管祭り(山上社 旧暦一月十四、十五日)

上記案内板の向かい側のブロック塀親柱脇には頭頂が頭襟形(ときんがた)の「式内 石巻神社」の社号標が建てられている。

塀内10m以内には形式だけの短い玉垣を持つ門柱、そのすぐ先には石造八幡鳥居が建てられ、境内には右手から社叢が覆いかぶさっている。
玉垣の脇にはもう一つの案内板『石巻神社の大般若経600巻』が掲示されていた。

豊橋市指定有形文化財
石巻神社の大般若経600巻
  昭和58年3月15日指定

大般若経とは、仏教の基礎となるさまざまな経典が集大成されたものです。石巻神社に納められたものは全600巻が揃い、このうち首尾(しゅび)を欠くものが17巻、識語(しきご)のないものが184巻、残りの399巻には識語があります。表紙は渋引紙で木綿の手打紐がつけてあり、軸は自在軸となっています。 料紙はすべて黄麻紙(おうまし)で紙幅天地25.6センチ、長さ約51センチです。 体裁は巻子(かんす)装で、淡墨界を施しています。
書写年代は、明記されているものでは応永元年(1394)〜同 6年(1399)の間で、書写場所は普門寺・東観音寺(とうかんのんじ)・財賀寺(さいかじ)などとなっています。600巻すべてが現存しているだけでなく、識語から三河・遠江の各所で書写され、代官・僧侶・百姓など多くの人々が係わっていることが分かる貴重な資料です。
なお、この大般若経600巻は現在、豊橋市美術博物館で保管されています。

                          豊橋市教育委員会

石鳥居は樹液で上部が黒っぽく染まっており、柱の両側には榊が植えられていた。

鳥居の先、正面10mあたりにはには三河では珍しい蕃塀(ばんべい)が設置されている。

蕃塀は銅板葺切妻屋根が葺かれ、木造で連子窓(れんじまど)が左右いっぱいに張られており。屋根越しに拝殿の瓦葺屋根の妻がのぞいている。

蕃塀を迂回すると、10mあまり正面奥に切妻造吹きっぱなし棟入の大きな拝殿が立ち上がっていた。

境内には氏子らしき人が二人いて、メンテナンス作業をしていた。

拝殿の軒下を見上げると、「正一位石纏(いしまき)神社」と浮き彫りされた銅の立派な扁額が掛かっていた。

拝殿前で参拝して、奥を見ると、本殿ではない建物が正面に見えていた。

拝殿の右脇に回ってみると、銅板葺屋根を持つ瑞垣をめぐらした神門があり、瑞垣内に瓦葺の祭文殿らしき建物があり、再奥には銅板葺両流造平入りの珍しい形式の本殿の屋根がのぞいていた。

拝殿の向かって左脇には瓦葺入母屋造棟入の社が祀られていたが、情報が見当たらず、何が祀られているのか不明だった。

氏子さんが作業をしていなければ、聴けたのだが。

この不明の社の左隣に表参道の方を向けた、瓦葺切妻造平入で合板の壁をめぐらせ、正面を開口にした境内社覆屋が設置されていた。

屋内を見ると、まだ新しく、総素木造になっており、奥の棚の上に5棟の境内社が祀られていた。

中央に天神社。
向かって右に伊雜皇社(いぞうこうしゃ)と稲荷神社。
向かって左に山神社と昨神社が祀られていた。
伊雜皇社の「雜」(訓読み:まじえる)の文字は常用漢字の「雑」で代用されることが多いが、文字は異なる。

伊雜皇社の総本社は志摩国(現三重県志摩市)一宮(別説もある)の伊雑宮(いざわのみや)で、主祭神は天照大神の別名である天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみ)とされている。
祭神を一般的な天照大神とすると、総本社は伊勢神宮内宮ということになるのだが、天照坐皇大御神御魂となると、皇大神宮別宮の伊雜宮ということになるが、伊勢平氏(小生の先祖)の地盤だった伊勢国は源氏と対立した折には源氏側に付いた熊野三山とは対立関係にあり、もっとも被害を受けたのが伊雑宮であったことに起因する複雑な事情があるようだ。

(この項、終り)

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石巻神社では晴天だったが、雨に降られないよう、一目散に名古屋市内に向かいました。10時半には名古屋市内に入ったのですが、結局、その日、名古屋市内に雨は降りませんでした。人工衛星を幾つも打ち上げているのに予報がまったく当たりません。何に使ってるんだか。中国軍機の領海侵犯が増えていることと、予報外れには相関関係があるのだろうか。

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