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本刈谷貝塚 土偶  7:末社市杵島社1

このページでは本刈谷神社(もとかりやじんじゃ/愛知県刈谷市)の祭神の一柱、須佐之男命と市原稲荷神社(刈谷市)の境内末社市杵島社(いちきしましゃ)の関係について紹介するつもりでしたが、市杵島社の鳥居の色から意外な方向に話が展開しました。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

《市原稲荷神社縦断》
2社の末社、市杵島社と丹生川社(にうかわしゃ)を案内してくれる方の後を付いていくと、南北に延びる表参道を北東から南西に横切って行った。

1MAP市原稲荷神社 境内末社市杵島社

これまで、三度も市原稲荷神社に参拝しているのに、表参道の西側に社のある気配は無く、社叢があるだけだと思い込んでいた。見つからなかったのも当然だった。しかも、表参道からさほど離れていない場所に、まずは丹生川社(にうかわしゃ)はあった。丹生川社は社叢で包まれていて、表参道からは死角に位置しており、見つからなくても不思議ではなかった。さらに案内の氏子らしき人物は市杵島社に向かって進んでいく。結局、氏子らしき人物に声を掛けた社地の北東の端から斜めに社地を縦断して南西の端にやって来ることになった。そこに市杵島社の社頭があり、東向きの朱の鳥居はあった。

2市原稲荷神社境内末社市杵島社鳥居

いやー、ここは表参道から完全に離れた場所なので、少なくとも市杵島社の存在を知っていなければ、見つからない可能性の高い場所だった。
市杵島社の鳥居の前で、氏子らしき人物は、それではと言って声を掛けた方向に戻っていった。

《市杵島社 朱の鳥居》
土偶と関係のある可能性の高いのは市杵島姫命が習合した弁財天なので、まずは市杵島社に参拝することにした。
市杵島社の市原稲荷神社境内からの入り口になっている鳥居は「朱の鳥居」とは呼んではいるものの、実際には笠木と根巻は漆黒に染められている。
赤と黒の色彩象徴性について、記紀に崇神9年の夢告に関する記述がある。『古事記』の場合は以下のようになっている。

この天皇の御世に疫病蔓延し人民が尽きようとした。天皇が憂え歎いていると、夢に大物主神が顕れて『オオタタネコをして吾を祭らせよ』との夢告があったので、天皇がオオタタネコを神主として大物主神を祭り、また天つ神・国つ神を祭り、また宇陀の墨坂神(※墨坂神社主祭神)に赤色の楯矛(たてほこ)を祭り、また大坂神(※大坂山口神社主祭神)に黒色の楯矛を祭り、また坂の神・河の神に幣帛を奉られた。これによりて疫の気は悉く息んで、国中が安平になった。
                               ※=山乃辺 注

墨坂神(すみさかのかみ)と大坂神(おおさかのかみ)を調べてみると、現在は以下の神々が割り当てられている。

●墨坂神〈墨坂神社主祭神〉
天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・大物主神
●大坂神〈大坂山口神社主祭神〉
大山祇命・須佐之男命・天児屋根命

墨坂神社主祭神には崇神天皇に夢告をした大物主神が含まれている。なぜ、墨坂神と大坂神の二神かというと、この二神の祀られた場所は大和に入る東の入口(墨坂神社)と西の入口(2社の大坂山口神社)に当たるからとされている。

《赤と黑の由来》
墨坂神と墨坂神社の名称は奈良県宇陀市に存在する墨坂に由来するが、その名称に関して『日本書紀』に以下の記述がある。

神武天皇は菟田(うだ)の高倉山の嶺に登って、国中を眺めました。そのときに国見丘(くにみのおか)の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)が居ました。
梟帥は多稽屢(タケル)と読みます。
また、八十梟帥は女坂(めさか)に女軍(めいくさ=女子の軍隊)を置きました。男坂(おさか)に男軍(おいくさ=男の軍隊)を置きました。墨坂(すみさか)に焃炭(おこしづみ/起こし炭)を置きました。この女坂・男坂・墨坂の地名はこういう由来です。

黒い炭が赤く焼けた坂、つまり「赤と黒」は八十梟帥側から見れば、侵入者である神武天皇軍を防ぐ結界の役割をしているわけだが、この故事を下敷きにして大物主神は崇神天皇に墨坂神に赤色の楯矛(焃炭に代わるもの)を祭るよう夢告したことになる。
女坂・男坂・墨坂、そして大坂はもちろん、イザナギがイザナミの送った雷神と鬼を防ぐために結界として千引(ちびき)の岩を置いた黄泉比良坂(よもつひらさか)のメタファーである。
黄泉比良坂は「境(サカい)」でもあり、この境内のすぐ西側を境川が流れているのは偶然ではないのかもしれない。
古代ギリシャ語「Sakai」とはスキタイ系サカ族のことだが、栗本慎一郎氏は『蘇我氏はサカ族である』という著書を著している。蘇我氏の関係者とみられるスサノオ(素鵞ノ男)とその娘が境川沿いに祀られているのだから。

《大坂神の赤》
一方、現在の大坂山口神社に黒色の楯矛を祭るための「赤」の要素は見当たらないし、大物主神も祀られていないことから、大坂神を祭ったのは大坂山口神社ではないのではないかという見方が強くなっているという。
しかし、大坂山口神社は牛頭天皇信仰で知られた神社だ。『祇園牛頭天王御縁起』にはこんな記述がある。

太子(※後の牛頭天王)は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛の頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。
                              ※=山乃辺 注

「牛頭天王は古単(コタン)の妻だけを蘇民将来(そみんしょうらい)の娘であるために助命して、茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができると、除災の法を教示した。」

さらに、社務所で手に入る「蘇民将来子孫之門」と書かれた札は赤地の紙が使用されている。

《八重垣と楯矛》
牛頭天王が祀られていたことから、大物主神が黒色の楯矛を祭るよう夢告したと確定することはできないが、大坂山口神社に黒色の楯矛を祭った理由は記紀史観では解ける事のない謎だろう。記紀は大物主神と須佐之男命の五世・六世の孫とする大国主命を混同しているが、『ホツマツタヱ』はオオモノヌシを「央守主オオモリヌシ=八重垣の臣=モノノベを治める者」という役職名としており、牛頭天王と習合した須佐之男命(=大山祇命)を八重垣の臣の祖としている。
『古事記』では単に「赤色の楯矛・黒色の楯矛」とされている記述は『日本書紀』では「赤盾(あかたて)八枚。赤矛(あかほこ)八竿(さお)・黑盾(くろたて)八枚。黑矛八竿」と記述されている。
須佐之男命が以下の和歌を詠んだことはよく知られている。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を

「八重垣」は単に「幾重にも作った垣根」と解釈されているが、須佐之男命を多くの(八枚、八竿の)楯矛を持つモノノベ(軍人)を指揮する八重垣の臣と解釈すれば、「妻籠(つまご)」も「妻と籠もったマイホーム」などではなく、「大社造の邸宅の入り口に籠る」の意で、屋敷の妻側(勾配屋根を持つ建築物の棟に、直角方向の側面のこと)に軍人達と構えた様子を詠んでいることになる。
ただし、大物主が役職名だとすると、官僚として天皇の夢に立つのは妙なことになる。そして墨坂神社の主祭神のラインナップの中に大物主が混じっているのにも大きな違和感を感じる。おそらく、記紀の言う崇神9年の夢告を告げた「大物主神」とは『ホツマツタヱ』の言う、初代大物主「大己貴神(オホナムチ)」のことではないのか。大己貴神なら伊邪那岐神・伊邪那美神の系譜なので、伊邪那岐神・伊邪那美神の後ろにラインナップされていても違和感は無いのだ。

《市杵島姫命は弁財天だったか?》
いやー、〈赤・黒〉でこんなに長い文章になってしまうとは思わなかった。
〈赤・黒〉の鳥居をくぐると、目の前に池が開けた。
池には朱の鳥居と合わせるように、緋鯉が水面を揺らせて遊泳している。

3市原稲荷神社境内末社市杵島社緋鯉

人の気配に敏感な鯉達で、カメラのフレーム内に収めるのが難しかった。
参道は池に沿って南に向かっており、短い石橋を渡ると、市杵島社の側面が目の前にあった。
鳥居は東を向いており、市杵島社は西を向いている。
つまり鳥居をくぐった時とは180度方向を変えて、祀られている市杵島姫命に参拝することとなった。

4市原稲荷神社境内末社市杵島社

市杵島姫命は宗形三女神(むなかたさんじょしん)のうちの一柱であり、記紀によれば、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神だ。
銅板葺流造(どうばんぶきながれづくり)の社の軒下に掛かった注連縄は房が3つ下がった立派なもので、スサノオの系譜であることを示唆している。一方の親神である天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)は、ここ市杵島社からもっとも遠い、市原稲荷神社本殿の東側にある境内摂社内外宮社(ないげくうしゃ)に祀られているから、市杵島姫命が同じ境内に祀られていても何の違和感も無いのだが、市杵島社が西を向いて祀られていることから、元は仏教系の弁財天が祀られていたのではないかと推測する。それだけではない。イチキシマヒメは神仏習合においては本地垂迹では弁才天に比定され、同神とされているのだ。
神が西に向かって祀られている例は多くの神社を巡ってきたが、ただ1社、東京歌舞伎町に祀られた稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)しか記憶に無い。
この神社には4柱の神と鬼王権現(本性は仏)が祀られており、鬼王権現が主体とも受け取れるので、西を向いて祀られていても違和感はない。同様に、ここの池に弁財天が祀られていたなら、西向きでも違和感は無いのだ。そして、土偶との関わりも見えてくる。

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スサノオの娘がスサノオの祀られた本刈谷神社からもっとも近い神社に祀られていたのには、あまりにも当たり前すぎて拍子抜けした。そして、この市杵島社の祀られた池にはあまりにも美しいものが多く存在していた。

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