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中条遺跡 土偶A 16:渦巻紋の縄文土器

このページでは刈谷市一ツ木町に位置し、個人的に刈谷市で最も興味を惹かれた縄文土器の出土した芋川遺跡を紹介します。

●中条遺跡 土偶A

築地貝塚(ついじかいづか)の北東950m以内に位置する芋川遺跡に向かった。

1MAP芋川遺跡/中条遺跡

芋川遺跡は下記写真のように、周囲を主に畑地に囲まれた高さ1.5mほどで矩形のの丘陵状の形で保存されていた。

1芋川公園

その丘陵は周囲を落葉樹で囲われた芋川公園として整備されている。
この「芋川」という名称は気になるが、現在の住所には存在しない名称だ。
しかし、芋川公園の周辺をチェックしてみると、芋川公園の北側を流れている逢妻川(あいづまがわ)を挟んだ対岸(北岸)に面して今川町が存在することが判った。
その今川町は、かつての「いも川村」だったという。

いも川→今川

その「いも川」の由来は現在の境川の旧名「妹川」に由来するという。
刈谷市の南側に面して西尾市が存在するが、西尾市にも「今川町」が存在する。
こちらの今川町は中世の今川荘の中心地だったと推定されており、この今川荘が桶狭間の戦いで破れた今川義元の祖である今川氏発祥地だったという。

もう一つの地名、芋川遺跡の存在する「一ツ木町(一ツ木村)」の町名由来は、はっきりしていて、この地で伐採された1本の大木で刈谷城の楼門の扉が制作されたことに由来しているという。

さて、一ツ木町の芋川公園内に上がると、遊具なども設置されているのだが、縄文期の代表的な竪穴式住居だと思われる円形の住居跡が赤土の中、コンクリートでたたかれて保存されていた。

2縄文期竪穴式住居跡/芋川公園.

コンクリート製の古代住居跡というのは強烈な違和感があるのだが、遺跡としてコストとメンテナンスのことを考慮してこうなったのだろう。
本来なら保存用の屋根が葺かれるなどすれば理想的なのだが。
それでもコンクリートの隙間から雑草が繁殖しており、もしコンクリートで覆われていなければ、梅雨の時期なら1ヶ月もしないうちに雑草に埋もれてしまっていたことだろう。
住居跡として残されているのは周囲のサークル状になった土台部と中央にある3つの石で組まれた炉があるのみで、柱穴は再現されていない。
『刈谷・西三河 土地のつくりと変化 大地の成り立ちと変化』というサイト(http://glaciation.jp/geoseisan/index.html)によれば、ここに見られる赤色土壌は 約12万年前、気候が現在よりも温暖化し、熱帯~亜熱帯気候になっていた時代に海進により碧海層が堆積し、丘陵部が風化してできたものだという。

他には、やはり縄文期の屋外炉跡がコンクリートで叩かれた土間の中央に組石炉だけが残されて再現されていた。

3縄文期屋外炉跡

4本の短いコンクリート造りの短い円柱は柱ではなく腰掛けを想定したもののようだ。

他には矩形に縁石が埋められた囲いが存在するのだが、遺跡なのか、花壇なのか、よく判らない。
この公園は屋外展示場といった体で、教育委員会の手になる複数の大きなカラー掲示板が設置されていた。

4芋川遺跡案内板

その中で芋川遺跡を案内したものが上のパネルだった。
そこには以下のようにあり、

芋川遺跡は、刈谷市内を西流する逢妻川左岸の小支谷に立地し、衣浦湾沿岸の最奥部に形成された貝塚を伴う遺跡として知られています。昭和44年、58年、61年の3次にわたって約3,500㎡に及ぶ発掘調査が実施され、その結果、縄文時代から奈良時代にかけての複合遺跡であることがわかりました。
 縄文時代では中期中葉~後葉(約4,000~4,500年前)の竪穴式住居12軒、土壙墓(※4基)、貯蔵穴、屋外炉のほか、晩期後葉(約2,500年前)の土器棺(※4点)などが発見されました。~以下略
                               ※=山乃辺 注

芋川遺跡の遺構配置図が表示されていた。

5芋川遺跡遺構配置図

そこには縄文期から奈良期に至る多数の住居跡の他に木棺墓出土場所、貯蔵穴の場所などが表記されているが、実際の公園内には上記に紹介した遺構以外には痕跡は残されていなかった。
遺構配置図を見た限りでは、上記に紹介した竪穴式住居と屋外炉は出土場所そのものに設けられているわけではなく、公園内の都合に合わせた場所に再現されたもののようだ。
それに、この遺構配置図では人骨の出土場所がよく判らない。

掲示板に表示された写真の中で興味を惹かれたのは渦巻き模様のある縄文土器の出土状況の写真で、この土器は刈谷市郷土博物館に展示されていた。

6縄文時代中期の土器出土状況

しかも、この土器の渦巻紋はただの渦巻きではなかった。
勾玉形の尻尾が延びたかのような渦巻きが浮き彫りされていたのだ。

他に興味を惹かれたのは埋葬人骨の出土状況の写真だった。

7縄文時代の埋葬人骨出土状況

これも縄文時代のものだというが、酸性の赤色土壌の中で、よく残っていたものだ。

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芋川遺跡の掲示板に出土状況写真の紹介されていた勾玉形の渦巻き紋のある縄文土器を次のページで紹介します。

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