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御用地遺跡 土偶 75:石製のヤリガンナ

新城市の石座神社遺跡(いわくらじんじゃいせき)の発掘場所は新東名高速北側というより、新東名高速の盛土の下ということが分かってきたので、再度石座神社遺跡に向かいました。

●御用地遺跡 土偶

しかし、再度石座神社遺跡に着いてみると、新東名高速の盛土部分を眺望できる場所は前回登った小山Aしか存在せず、結局、小山Aの頂から盛土部分を撮影するにとどまった。

1石座神社遺跡2021

今回は5月の初旬ということで、一部の水田には水が張られ、田植えの準備が始まっていた。
樹木が密集している山は周囲を取り囲んでいるのだが、眺望が望める山は樹木が伐採された小山Aしかなかった。

『全国遺跡報告総覧』(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14521)には「石座神社遺跡 要約」に以下の紹介がされていた。

断上山(※だんじょうやま)丘陵上、東西約300m、南北約100mの範囲に弥生時代後期から古墳時代前期の集落が展開する。集落は竪穴建物334棟、掘立柱建物8棟から構成され、建物群には大型竪穴建物、布掘り柱掘方をもつ大型掘立柱建物も含まれる。検出された建物群は集落研究の基礎資料、良好に出土した土器群は土器編年の基準資料としての価値が高い。破鏡と鉄剣、鉄斧、ヤリガンナ等の豊富な鉄製品、水銀朱付着土器5点の出土も注目される。集落の展開は同一丘陵上の前方後方墳の断上山10号墳の築造に帰結する。その他、縄文時代の玦状耳飾り2点、設楽原の戦いに関連した可能性がある鉛製鉄砲玉5点が出土した。  

この紹介文から、地図には表記の無い、石座神社が祀られていた山は「断上山(だんじょうやま)」という名称であることが判った。
竪穴建物は後期旧石器時代(35,000年前〜15,000年前)から室町時代(1336年〜1573年)まで造られていたことから、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 岩座神社遺跡』(公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団/愛知県埋蔵文化財センター 2015年)の資料(下記写真)によれば、断上山頂上の平坦部に無数の竪穴建物が同じ場所に重なって建てられてきたことが判る。

7丘陵頂部平坦部の竪穴建物群

上記写真を観ると、傾斜部は避けて竪穴建物跡が残っていることが見て取れるが、逆に数カ所、斜面に水平な地面を設けた上で竪穴建物を建てた跡が見られる。

下記写真は床面が検出された竪穴建物跡だが、二つの建物跡が重なっている。

8竪穴建物跡床面検出状況

下記写真は東側から石座神社遺跡を見下ろした景観だが、赤土の露出している部分は「08調査区」として区分されている部分だ。

2石座神社遺跡2007〜201

一方、西部は下記投稿線図のように「09調査区」として区分されている。

1MAP石座神社遺跡

この地図を見て、初めて石座神社遺跡は新東名高速道路の北側どころか、南側に存在し、断上山の尾根と北側斜面に位置することが判った。

石座神社遺跡発掘調査のために断上山頂上に祀られていた石座神社は断上山の南の麓に遷座し、石座神社の遷座にともなって大宮川は流路が付け替えられたことが判る。

下記写真は調査前の石座神社遺跡の状況だが、雑多な石仏が並べて奉られている。

3調査前の石座神社遺跡の状況

さらに下記写真は08調査区の䃯層(れきそう)上面の精査が行なわれている光景だが、䃯とは小石のことで、䃯層とは2.0~75mmの礫で構成される地層(地盤)のことだが、写真では䃯層の上に無数の大きな石が乗っているのが見える。

4 08区の調査( 䃯層上面の精査)

下記写真は09調査区を北側から俯瞰した光景。

5石座神社遺跡2007〜2010

下記写真は同じ09調査区を東側から俯瞰した光景。

6石座神社遺跡2007〜2010.


『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 岩座神社遺跡』には後期旧石器時代の旧石器の出土した分布図が掲載されていた。

2MAP後期旧石器時代の旧石器の分布

「石座神社遺跡 要約」には鉄製のヤリガンナが出土していることが紹介されているが、ヤリガンナとは槍のように刃(下記写真)を長い柄の先に取り付けたもので、彫刻刀で平面を削り出すような使い方をしたことが解っている。

9ヤリカンナ刃先

現在のようなカンナ(台カンナ)が普及したのは近世以降に西洋から西洋カンナが入ってきて以降のことで、現存する最古の木造建築である法隆寺の建築群もヤリガンナが使用されたことが解っている。
日本では弥生時代から日本特有のヤリガンナが使用されてきたのだが、ここでいう「ヤリガンナ」とは鉄製のヤリガンナのことで、実はヤリガンナの刃に当たる石製の刃先は旧石器時代から使用されてきており、尖頭器(せんとうき)と呼ばれている。
石座神社遺跡からは下記の安山岩を打ち欠いて刃をつけたものが出土している。

10後期旧石器時代の石器(08区)

三内丸山遺跡では直径約1mの栗の木の柱6本を使用した掘立柱建物が存在したことが解っているが、一体、石器しか存在しなかった時代に約1mの固い栗の木をどうやって伐採したのだろう。
推測ではカットする部分を火で焼き、炭化したところを石製の尖頭器で切り欠く作業をくり返して切り倒したとされている。
自然林が噴火などで焼ける光景を知っている日本人が火を利用したのはあり得ることだ。
上記、石器図右側の2点の石器は手で握るには小さすぎるので、やはり柄に取り付けて使用した道具ではないだろうか。

下記写真は石座神社遺跡から出土した旧石器時代の石器。

11後期旧石器時代の石器


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多くの遺跡の調査をした資料が、モノクロの印刷物であることが多く、また使用されたカメラがチープなものが多いのに比して、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 岩座神社遺跡』に使用されている写真は、これまで、見た事の無い素晴らしい写真が多かった。
岩座神社遺跡の調査が行われたのは14年以内のことであり、おそらくドローンが使用されたものと思われます。
使用されたカメラも解像度の高いものだ。

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