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中条遺跡 土偶A 8:長篠川

中条遺跡(なかじょういせき)のある刈谷市重原本町(しげはらほんまち)5丁目は東の町境に長篠川、北側の町境に下り松川が流れています。
南側は縄文期(海進4m)には入江となっており、海岸線となっていたと思われます。縄文期に現在の下り松川が流れていたかは不明ですが、現在の長篠川は深い場所では目測で深さ12mはありそうな渓谷になっていて、古代から丘陵が削り取られてきた結果だと思われます。中条遺跡 土偶Aは土偶に多い地母神タイプの土偶でない可能性もあるが、弁財天の原型である可能性もあるので、河川と無関係ではありません。現在の中条遺跡は三方に河川と入江の存在する特殊な遺跡なので、重原本町の三方に流れている3つの河川を辿ってみました。まずは縄文期に存在していた可能性の高い長篠川を紹介します。

●中条遺跡 土偶A

現在の長篠川の水源と思われる場所はGoogleMapsでは重原本町5丁目(中条遺跡)の北端の東北東1.9kmあまりに位置する知立市(ちりゅうし)弘栄の弘栄公園(標高12.9m)で、暗渠となって、地表から消えている。
弘栄公園脇の部分で川幅は2mほどだ。
中条遺跡から眺望できる上流側の長篠川が下記MAP内❶で、

1MAP中条遺跡/長篠川

Photo❶の正面奥に見えるのが、林桂山 万福寺(真宗大谷派)。

1長篠川/林桂山 万福寺

境内に石鳥居が見えるから、元は密教寺院だった可能性がある。
長篠川の水量は多くない。

MAP内❷が中条遺跡に存在する最も高い橋下を流れる長篠川。

2長篠川/橋

MAP内❸も橋上から撮影した長篠川で、この部分が長篠川の中で最も深い渓谷となっており、深さ12m以上ありそうだ。

3長篠川

上記Photo❸の中央下方にわずかに見えるのが川面。
左手の丘陵上の家屋は知立市側の住宅。
この渓谷の景観を利用したお洒落な住宅がPhoto❸の左下に切れている。
この渓谷に最も近づけるのが写真左手の長篠川刈谷市側の堤防だったので、刈谷市川の堤防を長篠川の河口に向かった下ることにした。

MAP内❹が下記Photo❹で、右側の住宅が中条遺跡側で、谷底に位置している。

4長篠川/住宅

水の透明度は高い。

下記Photo❺が長篠川の中で、最も顕著な蛇行部分。

5長篠川/住宅

右端の丘陵上が中条遺跡が見つかった場所だ。

下記Photo❻は中条遺跡に存在する2つ目の橋上から撮影したもの。
縄文期にはこの辺りまで入り江の海岸線が迫っていたとみられる。

6長篠川/住宅

右端の住宅部分までが重原本町5丁目(中条遺跡)。
奥に見える橋が長篠川の最後の橋。
堤防の左手には水田が広がっている。
長篠川のこの部分は蛇行していることから、川底に上流から流されてきたと思われる大型の瓦礫群が溜まっていた。
瓦礫は他の部分にも見られるのだが、ビッシリ溜まっているのはこの部分だけだ。

下記Photo❼は堤防内に降りて撮影したもの。

7長篠川/橋

奥に見える橋の向こう側はすでに猿渡川(さわたりがわ)だ。

下記Photo❽は知立市側から刈谷市側の中条遺跡(右端)の丘陵下に広がる水田地帯を眺望したもの。

8長篠川/水田

下記Photo❾は長篠川に架かった猿渡川に面した最後の橋上から上流側を眺望したもの。

9A長篠川/中条遺跡

左手奥が中条遺跡の見つかった丘陵。

下記写真は同じ橋上から見下ろした下流側。猿渡川への合流点

9B長篠川:猿渡川合流点

この部分では向こう岸は護岸されておらず、両岸とも藪がすごくて、川縁に出ることはできなかった。

Photo❷から猿渡川まで390m以内だったが、生物が全く見られなかった。
水田に使用している農薬が水門を通して長篠川に還流する場合もあるのかもしれない。
縄文時代、長篠川の渓谷が形成されていなければ、中条遺跡沿いは急流だったことだろう。

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実は今回、長篠川の知立市側の堤防上に三河三弘法の一つ、見返弘法大師(みかえりこうぼうたいし)に関わる霊場の入り口に遭遇したのですが、それは別項で紹介します。

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