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麻生田町大橋遺跡 土偶A 19:赤塚山・日吉原 古墳群

豊川市荻町の下林古墳(しもばやしこふん)から東南東4.6kmあたりの田町に位置する赤塚山東池古墳に向かいました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP赤塚山東池古墳/念仏塚1号墳

●赤塚山東池古墳(赤塚山古墳群)

赤塚山東池古墳は東名高速道路のすぐ南側に位置する東池の畔にあるので、東池を目標に向かった。
東池は東名高速道路の南側に面した広大な赤塚山公園の北東の端に位置していた。
東池の南側には豊川市民の多目的広場があり、その広場の東側に沿った道を北上すると、東池の南東の角に出た。
池の脇には出たものの、池の周囲はネット塀と生垣で囲われており、池面を眺められるようにはなっていなかった。
東池に沿って通路が設けてあったので、入っていくと、90mほどで、車止めになっていたので、そこから愛車を木陰に駐めて、歩くことにした。
この段階では赤塚山東池古墳まで、近いのか遠いのか認識していなかった。
熱暑の中、池に沿って曲がりくねった歩道を100mほど歩くと、小さな円墳らしき丘の麓に出た。

1B赤塚山東池古墳

円墳と言っても、このあたりに古墳があると分かっていたので、そう思ったのだが、そうでなければ、説明板も無く、ただの丘陵の端としか認識できなかったろう。

この円墳の前では池の周囲のネット塀や生垣は切れており、円墳の南側にある東池の水面を望むことができた。

2B赤塚山東池

東池の岸辺には葦が繁殖しており、右手に豊川グランドホテルが聳えている。
池の向こう岸の2基の鉄塔は多目的広場の照明灯だ。

赤塚山東池古墳の北側(丘陵側)から眺める墳頂は綺麗な円墳状をしていた。

3B赤塚山東池古墳

墳上に石材などは見当たらない。

潅木に遮られ、墳頂越しには東池の水面を見ることはできなかった。

4B赤塚山東池古墳から赤塚山東池眺望

墳上で目立った巨木はクヌギと

5Bクヌギ

栗の木で、

6Bクリノキ

墳上には若いイガグリが落ちていた。
この赤塚山東池古墳に関する情報はネット上にも見当たらなかったが、東池の南西側には赤塚山第1号墳跡が残っており、この古墳に関する情報は紹介されている。
『広報とよかわ』(豊川市役所/秘書課編集)には以下のようにある。

赤塚山公園のある赤塚山では、明治42(1909)年に古墳から土器が出土したと伝えられ、周辺に古墳が存在することが推定されてきました。平成3(1991)年、公園の建設に先立って行われた発掘調査で、6世紀末から7世紀初頭の直径約17メートルの円墳である「赤塚山第1号墳」が発見され、 これはこの地域の有力者の墓と推定されています。 古墳の主を埋葬した横穴式石室は鎌倉時代に壊され、副葬品の多くは持ち出されていましたが、石室の床面からガラス小玉 200個や金銅装耳環2個が見つかりました。金銅装耳環は、直径 2.4センチの銅の環に薄い金の膜を貼り付けたもので、1,400余年の時を経たものとは思えない輝きを保っています。
〜中略〜
公園の東にある東池の北側でも古墳(※赤塚山東池古墳)が発見されていて、こうした古墳の存在や赤土の山肌が「赤塚山」 の名称の由来となったといわれています。                             (※=山乃辺 注)

続いて、赤塚山東池古墳の真東2.4km以内に位置する念仏塚1号墳に向かった。

●念仏塚1号墳(日吉原古墳群)

赤塚山東池古墳はシロキ工業の敷地の南東の一角に道路や建物に墳形を削り取られた形で残されていた。

1念仏塚1号墳

削り取られた墳丘の上は樹木で覆われている。
この古墳に関しては道路沿いに教育委員会の製作した案内書『念仏塚1号墳』が掲示されていた。

豊川市指定史跡 
    昭和42年4月1日 指定

この付近には、かつて8基からなる念仏塚古墳群(日吉原古墳群)がありましたが、現在ではこの1号墳を残して他になくなっています。
このうち3基が前方後円墳であることや埴輪を持った古墳が多いことなど、この地域の古墳群としては得意な存在といえます。
1号墳は全長30mの前方後円墳で、規模は大きくありませんが、良く保存されています。
5世紀の後葉から6世紀の初めにかけて造られた古墳群とされています。

この古墳の「念仏塚」という名称の由来に関しては現場にもネット上にも情報が見当たらないが、「念仏塚」とは一般的には「行人塚」と呼ばれることの多い供養塚の一例なのだが、この古墳から念仏が聞こえたなどの伝承でもあったのだろうか。

上記写真の右端に入り口があり、古墳の裏面に緩やかに登っていく、枯葉の積もった未舗装の通路があった。

2念仏塚1号墳通路

通路を進むと20m以内で円丘状の草原の麓に出た。

3念仏塚1号墳噴頂

墳頂らしき場所に石柱が立っている。

その石柱に向かうと、南面に「町指定史跡 念仏塚古墳」と刻まれていた。

4念仏塚1号墳石標

その石標の場所から周囲を見回すと、南東方向以外は潅木が迫っており、南東方向は少し低く平らになっている。

5念仏塚1号墳眺望

潅木の向こう側は南側の道路だ。
この状況から判断すると、自分の立っている後円部がほぼ残っており、前方部が道路の造成で削り取られているようだ。

念仏塚1号墳を削った道路は道路の南側に流れている佐奈川に沿って通されている。
その佐奈川の南側の堤防上から撮影したのが下記写真だ。

6念仏塚1号墳

『遺跡ウォーカー𝜷』(http://www.isekiwalker.com)には念仏塚1号墳のさらに詳細な概要が紹介されていた。

<現況>草生地。 集成、古墳(前方後円墳)。
<立地>丘陵端部。標高40m、方位N157度E、墳長32m、後円径17m、前方幅12m・長15m、くびれ幅8.5m。  

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念仏塚1号墳に関して、教育委員会の製作した案内書に「かつて8基からなる念仏塚古墳群(日吉原古墳群)がありましたが、現在ではこの1号墳を残して他になくなっています。」とありますが、7基の古墳が消失したのは東名高速道路の敷設のためでした。
この記事で紹介した2つの古墳群と、その前に紹介した下林古墳のいずれも東名高速道路周辺にあるのは、偶然ではないと思われます。
古墳も道路も、平地では洪水の起きる場所は避けられ、山岳部では造立に労力とコストのかかる山上は避け、山麓部や谷間が選択されることから、必然的に同じ場所が利用されることが推測できます。
もう一つは、発見される必然性の無かった遺跡の多くが道路敷設の工事がきっかけで出土しているからです。
さらに古墳の場合はランドマークとなることから、旧街道ができる場合に、古墳をたどるルートが選択されてきた傾向があり、日陰ができることから休息所として利用しやすかったことも街道の経由地とされた要因となっていると思われます。

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