御用地遺跡 土偶 72:外輪山と石座石
新城市大宮狐塚 石座神社(いわくらじんじゃ)の境内に掲示されていた「由緒」には石座神社の起源が雁峯山(かりみねやま)に祀られた巨石であることが紹介されていました。それで、日を改めて雁峯山に向かうことにしました。
後日、雁峯山に向かう登り口に至った時には、すでに3時を回っていました。
雁峯山の中腹に存在するという石座石(いわくらいし)の在り処を等高線地図で確認していると、雁峯山の頂きは火山の外輪山の尾根の上にあるように見えた。
半円形の尾根は一つだけではなく、二つの外輪山状の尾根の一部が重なっているように見え、しかも外輪山状の尾根の中央部は隆起した部分はあるものの、中心部は新東名高速の南部よりも窪んでおり、旧いカルデラである可能性も考えられる。
1,400万年前ごろの奥三河(三河北東部)には箱根や富士山級の火山活動が存在したことが判かっている。
その火山活動で残っている山を代表する鳳来寺山が雁峯山の北東7.7kmあまりの場所に存在するが、鳳来寺山自体は火山ではなく、当時の火山活動によってできた地層の一部であって、円形の尾根は存在していない。
雁峯山の謎の地形はともかく、雁峯山のカルデラ状側の中腹に存在するという石座石に南側からアタックするルートは1つしか無く、その入り口は前回、寄ってきた柿下遺跡のある三叉路だった。
三叉路から新東名高速の高架下をくぐり抜けて北側に出て、曲がりくねっているものの舗装された山道を1.8kmあまり北上すると、軽四輪1台分の幅しかない林道にぶつかった。
その曲がりくねった林道に入って、今度は東に向かったが、その林道も舗装はされていたが、舗装上に枝葉や瓦礫や土が乗っている状況で、無舗装よりもタイヤが滑りやすく、しかもアスファルト舗装のすぐ脇が崖になっており、道路と崖の間に余裕がまったく無く、崖側を走行してくる帰途はかなり怖そうな道路だった。
道路から脱輪すれば、即転落という状況の道路だったのだ。
こういう場所は軽いオフロードのモーターサイクルで来るべき場所なのだが、現在は遠出の足はアメリカンのモーターサイクルを使用している。
それにしても、これまで各地の林道を走ってきたが、こんな狭くて怖い道路は初めてだった。
軽四輪同士がすれ違うのは無理な道路で、それが原因なのか、全く車とは出会わなかった。
そんな林道を1.9km近く走ると、大きなヘアピン・カーブになっている道幅の広い場所に出た。
そのヘアピンの頂点の道路に沿って、「←牛倉⎮大宮→」の道路標識が立っており、そのすぐ奥の土手にジュラルミン(?)の柱と白い板が設置され、双方に同じ情報「石座石・峯の図・矢印の付いた蛇行したルート図・100M」が記入されていた。
小生は峯のすぐ下まで「100M」で、矢印の場所に石座石があると受け取った。
しかし、この解釈はまるで間違っていたことが後で判った。
だが、映像認識主体の小生の脳内には「100M」という文字情報よりも「矢印の付いた蛇行したルート図」の方が主体となって認識されていた。
二つの案内標識の奥の杉の根元には『石座石』の案内書があったが、いつものように撮影はしたものの、後で読もうと、内容は見なかった。
しかし後で確認すると、案内書の出だしに「(石座石は)この上道に沿って約100mの所にある。」と書かれていたのだ。
この案内板の奥の板碑は『行き別れ観音跡』の記念石碑らしく、石座石までの距離と大月不動までの距離が刻まれていた。
「大月不動」は、ここにたどり着く直前の道路脇に「大月不動 清水の瀧」と書かれた案内標識が立てられており、愛車を道路脇に駐めて山中に入ってみたのだが、見るべきものは見当たらなかった。
このあたりには真言宗関係の施設が存在していた可能性があり、石座神社境内に置かれていた宝篋印塔(ほうきょういんとう)はその関係で持ち込まれたものかもしれない。
案内板『行き別れ観音跡』の前を通り抜けて山道を登っていくと、道に覆いかぶさるように杉が倒れている。
伐採されたものなのか、自然に倒れたものか不明だ。
土手には赤く染められた標識の杭が打ち込まれている。
倒れている杉をくぐって山道を進むと、山道の脇に「石座神社の奥宮 石座石→」と書き込まれた案内標識が朽ちて倒れていた。
後で、この案内標識はただ倒れていたのではなく、矢印が石座石の方向を示すように置かれていることが判ったが、矢印の方向に分岐した道があれば、そう思ったのだが、矢印の示す方向は森を指していただけだった。
ここまで、入り口の案内にあるような蛇行した道は存在していないし、峰は全く見えていない。
倒れた標識ではなく、通路に従って、さらに山道を登った。
少し登ると、杉林の途切れた開けた場所に出たが、そこには「矢印の付いた蛇行したルート図」そのままの形状をした通路が通っているのが確認できた。
やはり、進んできた道に間違いがないんだと安堵したものの、そこからは峰が見えていないのが気がかりな点だった。
そして、「矢印の付いた蛇行したルート図」そのままの通路を通り抜けたものの、峰は見えなかった。
そして「100M」は確実に過ぎたのだが、これまでも山登りの目安になる時間が20分だったのが40分になることはよくあることなので、「矢印の付いた蛇行したルート図」そのままの通路を過ぎたところなので、このすぐ先に石座石が存在する可能性は高いと思い、なおも山道を登った。
すると、「矢印の付いた蛇行したルート図」に近い形状の通路が、またも現れた。
もちろん、標識に記された「矢印の付いた蛇行したルート図」はこっちだったのかと思い、そのルートを登ったのだが、やはり石座石も峰も見えなかった。
少なくとも400mは登っているはずだが、やって来た道を戻っても石座石の在処はまったく思い当たらないので、引き返すということは石座石との遭遇を断念することになってしまう。
それで、雁峯山の峰を目指せば、峰の見える場所に石座石が存在するかもしれないと思い直し、1本しかない山道を峰に向かうことにした。
雁峰山を登る途中、一貫して山肌のあちこちに巨石は点在していた。
20分は登ったのだが、相変わらず峰は杉林に遮られて見えなかった。
5月の初旬だったが、気温は予想していたより高く、革ジャンは愛車に置いてきたのだが、湿度も高く、着ていたトレーナーも脱いで、上半身はランニング姿になった。
ここで、引き返すか、先に進むか考えたのだが、石座石との遭遇の可能性が無さそうな状況だったので、目的を雁峯山の頂上に上がることに切り替えた。
石座神社境内に掲示された由緒書には現在の石座石が祀られる以前には、雁峯山の頂上に「額岩」と「稚児石」と呼ばれる2つの石座石が存在し、山頂に社が祀られていたと言う記述があったからだ。
40分も登ると、道は険しくなり、頂上らしき峰が見えるようになって来た。
それでも目的の方の石座石の存在する気配は無く、あたりは薄暗くなってきていた。
そして、はっきりした通路と言える道も無くなってきていた。
このまま頂上に登ってしまうと、下山の時間を考慮すると、薄暗い中、危険な林道を戻ることになることに思い至った。
それで、やむなく上記等高線地図の「到達点」あたりから引き返すことにした。
頂上に上がることに目的を切り替えた時から、逆に朽ちて倒れていた石座石案内標識の周辺が気になってきていたのだ。
登りでパンパンになっていた脚で、倒れていた石座石案内標識まで戻ってくると、石座石案内標識の矢印の指している逆側(西側)は土手になっていて、進むことはできない。
南北方向は今往復してきた山道だ。
それで案内標識の矢印の指している東側の杉林の方に入って行ってみると、何と、獣道のような認識できるギリギリの通路のようなものがあった。
その通路は「矢印の付いた蛇行したルート図」の形をしているようで、再び山道を登ることになるが、急いで登って行ってみることにした。
蛇行した通路を登って行くと、右手の傾斜地の杉林内に注連縄の張られた石が見えてきた。
周囲にも巨石がゴロゴロしている。
さらに通路を進み、通路が無くなると「市指定有形民俗 石座石」と記入されたジュラルミンの標柱の前に至った。
南側から眺める石座石は巨石ではあるが、特徴の無い石で、前には石造の机と1対の花立が設置されていた。
とりあえず、机の前で参拝した。
この山道の入り口に掲示されていた案内書『石座石』には以下のようにあった。
石座神社本宮奥の院とも言うべきあらたかな大岩である。昔は祭りも盛大に行われたが中途で絶えた。
今はそれらを復活して本社の例祭とならんで行なっている。
石座石の周囲を反時計回りに回ってみることにしたが、東側に回ってみると、二つに裂けた石であることが判った。
近年に、裂けたものではなく、裂けてから時間が経っている。
自覚しているより周囲は暗くなっていたようで、ここで撮影した写真は手ぶれ補正ONでもピントの甘い写真ばかりになっていた。
北側に回ってみると、こちら側も左右に裂けており、上から見下ろせば、T字形に裂けているようだ。
西側に回ると、東側から認識できる裂け目はこちら側まで通っていた。
◼️◼️◼️◼️
雁峰山を降りてくると、日の当たる平地部はまだ十分明るく、石座神社内にあるという石座石を探しに、急いで石座神社に向かいました。