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本刈谷貝塚 土偶 13:猿渡の秘密

弁天川に遭遇したことで、愛知県刈谷市内に「弁天」という地名が他にもあるかもしれないと、検索してみたところ、2ヶ所に「弁天」地名が存在することが判明しましした。
今回はそのうちの一つ、小垣江町
(おがきえちょう)の弁天を訪ねてみることにしました。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

小垣江町の弁天は本刈谷貝塚(もとかりやかいづか)の東南東1.3kmに位置する、基本的には水田用地で、現在は小垣江町内に存在する区画整理された場所のようだった。

1小垣江町 弁天

本刈谷貝塚とは猿渡川(さわたりがわ)を挟んだ対岸に位置している。
刈谷市最南部に位置する「小垣江」という町名に関して地元の古老おわがた氏から聞き書きした、日本武尊の関わる以下のような地名の由来が『SeeSaa Blog』に紹介されている。
http://kariyaogakierekishi.seesaa.net/article/446939018.html

そのまた昔、記紀の時代のこと、日本武尊が東征からの帰路、海路熱田へ向かう途中、航路に迷い三河湾の奥深く、前川の入り江まで入り込んできてしまいここに上陸した。その際に、この地に神々しいものを感じて〈御垣江〉(=神の御垣の入り江)と名付けたことが地名の起こり

「御垣江→小垣江」と当て字が変更されたということだ。
「前川」とは小垣江の南東4km以内に位置し、現在は安城市内(愛知県)となっている。日本武尊の時代には小垣江は猿渡川下流とともに海面下にあり、現在の衣浦湾の海岸線は前川に迫っていたとみられる。
大和朝廷による各地域への遠征・平定は武力によるものもあるが、遠征各地で祭祀を行ったことが大きい。武力はその場所に軍部が駐屯し続けなければ、衰退するものだが、祭祀は文化であり、地元に受け入れられれば、残っていくものだからだ。
実際、日本武尊が祭祀を行った場所は現在も神社として祀られていることが多いが、戦闘の記録が残されている例はほとんど存在しない。そして、各神社の伝承をチェックすれば、日本武尊が東征の帰途、どんな経路を辿ったのかを知ることができる。
日本武尊の関わる神社のうち、前川の前後に祭祀を行った場所が以下だ。

前 志葉都神社(愛知県西尾市吉良町津平中谷3)
  祭神:建津牧命(日本武尊東征随行者) 秋津比畔神 菅原道真
  ▶︎小垣江の南東15kmあまり
後 宅美神社(愛知県一宮市西大海道中山73)
  祭神:武田王(日本武尊の息子)
  ▶︎小垣江の北北西40kmあまり

つまり、実際に小垣江周辺を日本武尊が通過した可能性は大きく、「御垣江→小垣江」説はありえることになる。
ところで、現在の小垣江町弁天に弁才天や弁才天と同一視されている市杵嶋姫命が祀られた神社仏閣は存在していないようだが、小垣江町弁天交差点が存在し、その交差点プレートが存在する可能性があるので、まずは小垣江町弁天交差点を目指した。

2小垣江弁天交差点

上記写真は小垣江町弁天交差点から弁天方向を撮影したものだが、東京都では信号のある交差点には必ず交差点名プレートが掲示されているが、愛知県ではそうとは限らない。しかし、小垣江町弁天交差点には見事に(!?)交差点名プレートが掲示されていた。しかも4方向に。信号機にLEDが採用され、構造材が軽量化されたことで、交差点名プレートが取り付けやすくなったのは大きい。
しかし、交差点名プレートからは「弁天」の地名由来は判らない。
ここ弁天の区画周囲を全て巡ってみたが、その代表的な風景が以下だ。

3小垣江町弁天

7月下旬ということで、「弁天」のおよそ85%を占めている水田は出穂前の稲の青い葉で埋まっている。
水田の間には碁盤の目のように整理された用水路が設けられており、この用水路に水を提供する河川は弁天内には流れていないが、弁天を挟んで、猿渡川の上流側と下流側に流れ込んでいる河川がそれぞれ存在する。弁天の猿渡川下流側60m以内を流れている河川が以下だが、

4小垣江町 河川A

名称の情報が見当たらず、以後「河川A」と呼ぶ。猿渡川に流れ込んでいる河口の幅は6m以内。
一方、弁天の猿渡川上流側260mあまりに流れ込んでいるのが以下の江川だ。

5小垣江町江川

江川は河川Aと比べると、川筋が太く、流路が複雑で、源流をたどってみたところ、猿渡川から5km以上離れた丘陵上で暗渠の中に消えていた。猿渡川に流れ込んでいる河口の幅は10mあまり。
河川Aと江川から給水された水が弁天の水田を潤わせているのは確かだが、だからといって、「弁天」という地名とは結びつかない。
「弁天」は「弁財天」が省略されて庶民に定着した呼称だが、「弁財天」自体が元は芸術・学問などの知を司るヒンドゥーの女神「サラスヴァティー」が漢訳された「弁才天」から当て字変更されたものだ。女神サラスヴァティーの語源となったサラスヴァティー川は日本の縄文時代と弥生時代の狭間にインドで成立したブラーフマナ(文書群)時代にはすでに干上がっていたというのだが、愛知県西三河地方を流れるサラスヴァティーである猿渡川(下記写真左手に弁天)は健在であり、

6猿渡川神名橋

縄文時代には弁天の1.7km以内上流の猿渡川両岸に集落が発達していたとみられていることからみても、小垣江町弁天と無関係とは思えない。

サラスヴァティー→サルスベリ→猿渡

上記のように変化したとは思えないので、「猿渡川」の名称の由来を調べてみたところ、日本各地に存在する「沢渡」に当て字変更した河川名のようで、「上沢渡(かみざわたり)」という地名が弁天の南南東1.1km以内の場所に存在しているのを見つけた。ちなみに「下沢渡」「沢渡」という地名は残っていないので、現在それらは名称が変更されている可能性がある。
ところで、日本各地に存在するこの「沢渡」という名称は曲者で、『地形由来でみる東京の地名』(松尾出版)の著者、山内和幸氏の運営しているサイト『目からウロコの地名由来』(https://baba72885.exblog.jp)の〈「土(ど・と)」の地名由来と「渡」地名〉には「沢渡」という地名が2ヶ所紹介されている。

・沢渡 (さわんど:長野県松本市)……根木ノ沢と梓川の合流点
・沢渡 (さわど:長野県北安曇郡白馬村) ……姫川に流れ込む小さな沢の合流点

つまり、「渡=土(ど)」であり、川の合流点を意味しているという。
小垣江町上沢渡は猿渡川が境川(さかいがわ)に合流する場所にあり、山内氏説と見事に合致している。
梅雨の合間の久しぶりに青空が出た日、猿渡川堤防を河川Aの河口から境川との合流点に向かって下ってみた。2kmあまりで境川の合流点に出た。

7猿渡川境川への合流点

上記写真左側が境川(川幅320mあまり)、右側が猿渡川(川幅70mあまり)。中央の三角州が衣崎町(ころもざきちょう)。
武漢風邪発生以降、久しぶりに広大な場所に出た。

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小垣江町弁天から猿渡川堤防を下って「沢渡(さわど)」を発見。そして、次のブログで弁天の由来につながる地名の存在に気づくことになった。

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