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御用地遺跡 土偶 38:大蛇のいる弁財天

岡崎市の大友 弁財天社から3.6kmあまり南西に位置する安城市の上条弁財天に向かいました。

●後頭部結髪土偶

1MAP上条 弁財天社

上条弁財天の社頭は南北に延びる県道286号線の西側に面していた。
社地は南北約15m、東西約70mとウナギの寝床のように細長い。
286号線には歩道があって、歩道に面した場所に東向きに社号標が設置されているのだが、潅木が茂っていて上部の「上条弁財」までしか見えていなかった。

1上条弁財天社号標

社頭には社号標しかなく、社地は白い金属パイプを組み合わせた柵で囲われているのだが、社地の北東部の角と路地に面した20mあまりには柵が無く、解放されている。
境内の東側30mあまりは砂地になっており、社号標の奥20mあたりには幟柱が3本建てられている以外は完全に空き地になっている。
毎月3日の例祭には大型のバスでもやってくるのだろうか。

幟柱の奥、10mほどの場所には50cmほどの高さの玉垣で囲われた方形の池が存在した。

2上条弁財天鳥居

池の手前には石灯籠が1基と素木に「上条弁財天御開帳」と墨書された木標が建てられ、透明度の高い池の中には注連縄の張られた石鳥居が設置され、鳥居の奥には銅板葺流造の上条弁財天本殿が祀られている。
これだけ水の透明度が高いのは、おそらく湧き水があるのだと思われる。
本殿右手(北側)の外を通っている一般道はかなり急な上り坂になっており、本殿の裏手は丘陵になっているようだ。
となると、湧き水があるとすれば、碧海台地から落ちる水なのだろう。
表参道は池の右手(北側)を囲う玉垣と社地を囲う生垣の間を奥に向かっており、奥に進むほど表道路は境内より高くなっている。

池を囲う玉垣が切れると、その先で表参道は突き当たりとなっており、突き当たりから左手の本殿の設置されている石垣の組まれた島に渡る短い橋が架かり、本殿前の拝所に出られるようになっている。

3上条弁財天

それにしても池の水は透明で、池底の砂は白いことが見て取れる。
魚の姿が見えないこともあって、砂の表面には深緑の水藻が繁殖しているが、特に池の中に設置された石鳥居や常夜灯の柱の根元には水藻が濃く集中している。
池の左手(南側)はすでに社叢で覆われた丘陵が始まっており、土手になっている。

本殿に渡る橋の直前の、参道の突き当たりには現役ではないが、直径が1.5mはありそうな、すり鉢状の手水桶が設置され、その桶の陰の基壇上にトグロを巻いた蛇の石像が置かれていた。

4上条弁財天手水桶

その蛇像の隣には基壇だけが1基残っているので、蛇像はもう1体存在し、おそらく対になって弁財天社の左右に置かれていたものだと思われる。

橋と本殿前の拝所はコンクリートでたたかれていたが、拝所の左手(南側)に口を開けたワームのようなオブジェがあり、口腔内に特殊な形態の素木の神棚が祀られていた。

5上条弁財天ウロ

よく観ると、樹種不明の樹木の空(うろ)で、大蛇が口を開けているように見えたことから、神棚が祀られたのだろう。
また、大蛇に見えるように2本柱の、鉄で葺かれた屋根が丁度良い場所に設置されている。

その鉄の屋根の右脇、拝所のたたきの下に1段、踊り場になるような直方体の巨石が水の中に設置され、さらに同じ高さの足場になる石臼が並べられていた。

6水汲み場

すぐ向かい側の大蛇の樹の根元なのか幹なのか不明だが、水辺に大きなコブができており、その脇に半円形のサルノコシカケができているのだが、何故かコブとともに薄紅に染まっている。
この水上の踊り場の端には机が用意されていて、机上にヒシャクと湯呑みがたくさん用意されていた。
石臼に上がってヒシャクで池の水を汲めるようになっていたのだ。

本殿前の縁には湯呑みに汲んだ水を弁財天に奉納できるように、机が用意されていた。

7上条弁財天お水

水やお神酒は弁財天の大好物なので、前もって弁財天に行くことが判っている場合はワンカップの日本酒を用意して行き、この日は1カップだけの日本酒をここで上げることにし、一旦、愛車に日本酒を取りに戻ったが、プルトップのキャップの付いた小型のワンカップだったので、ここで全部使い切るしかなかった。
小型のワンカップはウソのように、ここの湯呑み八分目の量だった。
境内には開帳記念で平成13年(2001)に造立された巨大な板碑の『上条弁財天由緒』が設置されていた。

仁安元年(西暦1166年)後白河上皇は、高姫高倉三条女御の料荘として、碧海の庄を新設し、その荘園の経済交流のために現上青野町に市場を開き市場神として弁財天を祭祀された。
慶長6年(1061年)岡崎城主本多豊後守康重公は、旧友の米津盛円大僧都が上条白山媛神社の神宮寺(神光寺)の別当職に内定したのを喜ばれて、福の神を贈ろうといって青野弁財天を贈られた。その勧請の時たくさんの石に経文を書き写して敷きならべその上に社堂を建立したという。その後不思議なことに地下より清水がこんこんと泉の如く涌きいでそれ以後いかなる旱魃時にも絶えることなくあまねく田畑をうるおし豊穣の恵みを村民にもたらし病めるものはこれを癒し、悩めるのには神霊により苦悩を解かれたという。
泉より涌き出る清水は、田方二百五十石(625俵)の豊かな稔りを村民にもたらしたという。御霊水は昔から「おでき」「いぼ」「眼病」が速やかに治るといわれ又音曲、芸能の神、子宝を授かる神として、信仰する方が多く、近年事業の繁栄、進学、良縁、長寿、交通安全等の祈願する人が多くなって参りました。
例祭は毎月3日です。

「上青野町に市場を開き市場神として弁財天を祭祀された。」という記述は先に紹介した一姫神社で、

小生が一姫(市姫)の正体を弁財天と推測したことと一致しており、京都市の市比賣神社(いちひめじんじゃ)との繋がりが矢作川(やはぎがわ)西岸地域にある可能性を高めている。

ところで、上条弁財天本堂の右脇には銅版葺屋根の付いた衝立が設置されているのだが、その衝立が目隠しになる場所に「水分神社」(みくまりじんじゃ)の社号標が建てられていた。
Googleマップでは「水分神社」の表記は上条弁財天から北側の路地を隔てた個人住宅の場所に記入されており、地図上に「上条弁財天」の表記は存在しない。
一体、どういうことなのか。
実はGoogleマップでは表記の場所が間違っている場合があるので、当てにはできない。
そして、基本的に神社庁に登録されていない神社は表記されていない。
しかし、それなら「水分神社」は表記があるので、神社庁に登録されていることになる。
それで、Yahoo地図で確認してみたところ、池の南東に面した建物に「上条弁財天社務所」の表記が入っており、本殿には「水分神社」と表記され、社号標にある「上条弁財天」の表記はやはり、地図上には存在しなかった。
推察するに、この上条弁財天は正規には「水分神社」であり、通称が「上条弁財天」となっているようだ。
それなら、大型バスの入れる駐車場の意味が理解できる。
「上条弁財天社務所」は公民館だと推測していたのだが、ストリートビューで改めて確認すると、社務所と神職の住宅にも見える。
問題は『上条弁財天由緒』で、「水分神社」に一切触れられていないことだ。

上記のような事情があるので「水分神社」に触れておく必要がある。
水分神社の総本社は奈良県吉野郡に存在する吉野水分神社である。
Wikipedia「吉野水分神社」の情報を整理してみると、以下のような神社である。

祭神: 天之水分大神。水を司る神。

式内社で、旧社格は村社。古くから信仰されてきた神社で、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。本居宣長の両親が子守明神へ祈願を行ったことにより宣長が授けられたといわれている。

創建年代は不詳で、最も古い記録は『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。
吉野水分神社は元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流であり、東へ流れる音無川、北へ流れる喜佐谷川、西へ流れる秋野川などの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい場所である。大同元年(806年)頃に現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。社家は前防家である。

もう一つ、直前に寄ってきた大友 弁財天社とも結びつく事柄が、

Wikipedia「吉野水分神社」に記述されていた。

神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。

大友 弁財天社で紹介した金峯山(きんぷせん)とは上記の金峰山(きんぷせん)のことである。

ところで、ネット上の情報を見ていると、湧き水の場所は池の南西の角にあることが判った。
池の水がどこに抜けているのか調べてみると、池から社務所に沿って東側の幹線道路286号線に向かっている。
286号線の向かい側の歩道と、東側の水田の間には幅1.5mほどの用水路が286号線に沿って、南北に延びており、境内からの水は286号線の地下をくぐって、その用水路に落ちているようだ。
周辺の河川をチェックすると、大友 弁財天社の東400mあまりの場所に南北に郷東川(ごうとうがわ)が流れているが、286号線沿いの用水路から郷東川に向かう農道の側溝が延びている。
大友 弁財天社の境内を出て郷東川に向かったが、閑農期の郷東川の水面の幅は1mもない水路だった。

その郷東川は西鹿乗川(かのりがわ)の支流であり、郷東川の東620mあまりの場所を南北に流れているので、西鹿乗川に出てみた。

9郷東川下流側

西鹿乗川に架かっている橋は幅4mほどで、西鹿乗川の水量も多くはなく、所々、川底が露出している状態だった。
行く手をJRの高架が横切っているが、西鹿乗川はJR高架の下をくぐり抜け、さらに南に向かっている。

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水分神社と上条 弁財天の謎は上条 弁財天の境内の南に存在する門柱がきっかけで解けることになります。

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