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麻生田町大橋遺跡 土偶A 39:河況係数最高値と弁財天
豊川市下条西町の素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)から、同じ下条西町の真東に位置する市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)に向かうため、ビニールハウスの立ち並ぶ路地を迂回していると、石鳥居のある三叉路脇に出ました。2社の距離は直線距離で200mあまりに過ぎませんでした。
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スサノオとイチキシマヒメの父娘をセットで祀ったと思われる二社の神社は各地でみられることです。
下条西町は豊川が90度以上の鋭角で左折している、洪水被害の大きな要因を持つコーナーに位置しています。
このため、そのコーナーには流路と堤防の間に上西河原という広い砂州ができています。
素盞鳴神社はその堤防の下脇に位置していますが、豊川はこのコーナーの上流2.5km以内にも90度の角度で蛇行するコーナーがあり、下条西町は豊川が決壊すれば洪水に見舞われる、かなり恐ろしい地形内に位置しています。
『世界大百科事典』内には下条西町脇に設けられた「豊川放水路」に関して以下のように言及されている。
…豊川は流路延長が短く,河道のこう配が大きいのに,流域の降水量に季節的変化が大きいため,河況係数(年間の最大流量の最小流量に対する比)は8.1と全国主要河川の中では最高値を示している。このため過去何度も洪水にみまわれ,鎧堤と呼ばれる堤防を築いたり,民家のまわりに石垣を築くなど対策が講じられてきたが,最終的に解決されたのは1965年の豊川放水路の完成によってである。
豊川放水路は下流、三河湾のわずか600mあまり上流で再度豊川に合流する、洪水対策目的の人工的な水路だが、素盞鳴神社と市杵島姫神社はそんな豊川放水路の始まる下条西町内に位置していた。
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この場所が縄文時代にはどんな状況にあったのか、縄文海進4m(縄文時代の平均的な海進状況)の状況を海進MAPで見てみると以下のようになっている。
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素盞鳴神社、市杵島姫神社の位置する現在の場所は縄文期には入江の海岸線に位置していたことが判る。
もちろん、素盞鳴神社、市杵島姫神社が祀られたのは遥か後代のことだ。
それでもギリギリ、岩盤のしっかりした土地に社殿を建てているいることが解る。
下条西町の市杵島姫神社の社頭に立つと、表道路からは東向きの石造八幡鳥居のまたいでいる、コンクリートでたたかれた10mあまりしかない表参道が真っ直ぐ瓦葺の社に向かって延びていた。
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境内のすぐ右脇にはガラス製の栽培ハウスが存在している。
社頭脇に愛車を駐めて、鳥居をくぐり、社前に立つと、入母屋造棟入素木造で前全面にガラス格子戸を閉めたてた社殿が河原石を50cmほどの高さに組んだ基壇上に設置されていた。
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社殿前に上がって参拝したが、社頭に建てられていた由緒書板碑には以下のように刻まれていた。
祭神 市杵嶋姫命
創建 不詳
明治以前に、滋賀県琵琶湖生島(※ちくぶしま)の生島神社より御分身された。
前には、和田村鐘ヶ淵のとなりの弁天浦に弁財天社として鎮座した。
この地は洪水被害のために住民が氏神(椙本神社)と共に、高台の地に去ったので、元治元年甲子初秋九月十五日に現在地に遷座された。
〜以下略〜 (※=山乃辺 注)
社殿内を見ると、殿内は手前と奥の部屋に板壁とガラス格子窓で仕切られており、社は確認できなかった。
社殿脇に回ってみると、水は干上がっているものの、水路が設けられていた。
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社殿裏面の水路は南に向かって延びているようで、10mあまり南の社地内に位置する蓮池に向かっている。
その蓮池に向かうと、7月下旬ということで、水面は蓮の葉で覆われていた。
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東京上野の不忍池(しのばずのいけ)に代表されるように、弁財天(現在は市杵嶋姫命)と蓮池はセットになっていることが多い。
そして、不忍池に祀られた不忍池辨天堂には下条西町の素盞鳴神社に奉られていた役小角も奉られているのだ。
不忍池と下条西町の双方で、弁財天(市杵嶋姫命)・蓮池・役小角がセットになっている。
下記写真は2005年12月中旬の不忍池を撮影したものだが、蓮は立ち枯れ、ユリカモメや鴨が渡ってきていた。
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現在の不忍池は東京湾と6km以上離れているが、縄文時代には東京湾の一部だったことが分かっている。
そして、現在の不忍池の北岸からは縄文期の竪穴住居跡が複数発掘されている。
同じ鳥とは限らないが、縄文時代にも、この地に渡って来た鳥はいたことだろう。
今年の不忍池はどうなっているんだろうか。
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豊川市には他にもスサノオとイチキシマヒメをセットで祀った場所があり、弁財天の祀られた寺院も存在するのだが、ほかの要素を取材しているうちに真冬になってしまい、豊川市以西は移動途中に低温になる山越えをする場所があり、続きの探索は今年暖かくなって以降、行う予定です。
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