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今朝平遺跡 縄文のビーナス 12:二つの下山通路

豊田市足助町(あすけちょう)の飯盛山(いいもりやま)南西の中腹に位置する飯盛山 香積寺(こうじゃくじ)は足助氏居館(武家屋敷)跡に創建された寺院で、創建当時は真言宗寺院だったと推測できます。本堂前の境内から、総門を見下ろした時に、防衛を考慮されて築造されていたと思われる前身の足助氏居館の匂いを、その地形から感じました。足助氏は平安時代末期に三河国足助の地に起きた一族です。

豊田市足助町 飯盛山

本堂前の境内から幅の広い石段を降り、石段の下から本堂を振り返ると、本堂のある境内は石段下から3m以上の高さにあり、飯盛山の麓を流れている巴川の岸から登ってくると、本堂への現在の入り口は、この石段しかないことが解った。

豊田市足助町 飯盛山 香積寺 石段/本堂

香積寺の表参道を外に向かって進み、内側から総門前に立つと、総門は切妻造瓦葺の薬医門(やくいもん)であることが判った。

飯盛山 香積寺 総門

●薬医門

薬医(やくい)=やぐい(矢食い)

薬医門という名称の由来は一説に、矢による攻撃を食い止める機能があったという説があり、その説によれば、武家屋敷である足助氏居館にはふさわしい門なのだが、矢による攻撃を食い止める機能は厚い板戸を持つ門であれば、どんな門でも同じことなはずで、納得のいかない説だ。
Wikipediaで「薬医門」の説明を見ると「鏡柱から控え柱までを取り込む屋根を持つ。本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。」とあり、矢に対応する門であるとする説は見られない。
鏡柱とは主になる2本の柱のこと。
控え柱とは、2本柱しかない建造物は2本柱の中央部分を押せば倒れやすいので、他に2本、あるいは主になる柱の前後に合わせて4本の柱を追加して門が押されても倒れにくくした門のことだ。
しかし、Wikipediaの説明も、薬医門としては例外となる医家の門(扉を持たない門)が総称になっているというのは納得のいかない説だ。
思いつきの私見に過ぎないのだが、薬医門の柱と棟は冠木門(かぶきもん)と同じ鏡柱と冠木で、立てた「井桁」から下の横棒を省いた(約した)形をしており、「やくい」は「約井」ではないかというのが私の説だ。
つまり、矢に対応するためでも、医家の門を示すものでもないと考える。
それでも、香積寺の総門は6本の柱で瓦葺屋根を支えたもので、台風で屋根が強風を巻き込んでも傾くことはなく、人為的な攻撃にも耐久性の高い構造を持っている門だと言える。

ところで、上記写真総門の奥に当たる外側を見ると、20mあまり奥に、5mほどの高さの石垣が築かれており、そこには登りの石段が設けられている。
飯盛山から降りていくのに、なぜもう一度石段を上がる必要があるのか。
この石垣も防衛のために築かれたものと考えれば、納得がいく。
そして驚くのはその石垣の内側にも「豊栄(とよさか)稲荷大明神」の朱の幟が立っていることだ。
豊栄稲荷目的の参拝者が多いのかもしれない。

総門の外側には途中に踊り場を持つ長い石段が設けられていた。

飯盛山 香積寺 石段/総門

もっとも下の石垣の上には石段に沿って「香積寺参道」の看板が掲示され、石段の麓脇には禅宗の寺院の結界を示す「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑が建てられているている。
これは「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読み、ニンニクやニラなどの匂いの強い野菜と酒を口にする者の出入りを禁じるというものだが、もちろん、修行の妨げになるからだ。
「不許葷酒入山門」石碑と向かい合うように石段下の道の反対側には以下の道標が建てられていた。

飯盛山 香積寺 道標

道標の人差し指は石段(参道)を指している。

この石段下の道は愛車を駐めてきた駐車場に通じている。
駐車場に向かうと、右手の飯盛山の土手は森で、左手の巴川は下記写真のように並木越しに見えているが、川面までは10m以上あるものと思われる。

飯盛山/巴川 持月橋

石段下から上記写真の朱塗りの持月橋(たいげつきょう)までは220mあまり。
持月橋から飯盛山登り口脇の駐車場までは190m以内。
香積寺側に降ったのは10年前に飯盛山に登った時のことだ。

昨年、飯盛山に登った時は別のコースで下ったので、そのコースでの体験を以降に紹介する。
山頂から山頂に上がる入り口のT字路には下りず、直接北側に降りる山道があった。
その降り口からは直接、足助町の街並を見下ろすことができた。

飯盛山山頂から北側の足助町を眺望

足助川が流れているのは山頂からは確認できなかった。

山道を下りていくとすぐ、複数の巨石が存在する場所を通りかかった。

飯盛山 山道 巨石群

奇妙に感じたのは、上記写真手前の2つの石は厚く苔やシダ類に表面の多くが覆われているのだが、もっとも下方に位置する1つの巨石だけが苔もシダもほとんど見えず、白く輝いて見えたことだ。

その石(「石A」と呼ぶ)を見に行った。

飯盛山 巨石

この巨石は複数の平面を組み合わせたような不思議な形をしていたが、面と面の接する角はほとんどが滑らかなアールになっている。

しかし、近くに行ってもっとも広い平面部を見てみると、日陰になる湿気の多い下部はマメシダなどが繁殖しており、一部に窪みも見られた。

飯盛山 巨石

この面には自然に入ったものと思われる線が複数入っていた。
流紋は見られず、粒結晶の集合体であるように見え、花崗岩だと思われるが、白っぽく見えるのは斜長石(しゃちょうせき)を多く含むからなのかもしれない。
斜長石は月の石の主成分であり、月が銀色に輝いて見えるのは斜長石効果なのかもしれない。
一部に表面が剥離しそうな部分も見える。

この石Aを過ぎると、道はあるが、以下のような美しい森の傾斜地が続き、中腹より下部には森以外には特に目を惹くものには遭遇しないまま、愛車を駐めた駐車場脇に降りられた。

飯盛山 北側斜面

南側には石は少なく、北側には石が多い印象が残ったが、南側は居館や寺院が建造されたことから、石が使用されて、少なくなっている可能性も考えられる。

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次の記事では飯盛山麓の紅葉の名所、香嵐渓(こうらんけい)を形成している巴川の様子を紹介します。


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