見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 120:御幣の立てられた前方後円墳

豊川市市三上町(みかみちょう)の権現橋から牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)の東に立ち上がっている標高70mほどの権現山山頂下に祀られた権現山緑野神社(みどのじんじゃ)に向かうことにしました。緑野神社の場所は地図に表記があるのですが、緑野神社に至る道は表示されていませんでした。緑野神社の西130m以内を南北に走っている県道31号線からの登り口を探したのですが、それらしき登り口は見当たりませんでした。地図で確認すると、県道69号線から緑野神社の東100mあまりの場所まで延びている道が表記されていたので、そちら側に回りました。緑野神社の東側にやって来ると、巨大な給水塔が3基、山を削り取って平地にした場所に設置されていました。道は3基の給水塔の東側に沿って延びていましたが、地図ではその道から分岐して最も北側の給水塔の北側に入って行く通路があり、緑野神社に向かっているように見えました。しかし、実際にその分岐道に到達すると、入り口に鎖が張ってあって、侵入できないようになっていました。その分岐道の北側には無人の不思議な雰囲気の空き地(?)らしきものが面していました。そこで、分岐道の入り口脇に愛車を駐めて、その空き地の奥まで入って行ってみて、説明不可な通路を通って、なんとか給水塔の裏山まで登ることができました。その給水塔の裏山から東に広がる豊橋市の山岳部を撮影したのがヘッダー写真です。権現山の山頂は平らで、山頂の崖上は愛車を駐めた場所との標高差20mほどです。


権現山山頂から緑野神社方向に向かったものの、通路らしきものは見当たらず、森が深くて、進むのが困難で、緑野神社参拝をあきらめて、愛車に戻った。
3基の給水塔の東側にはさらに道が南に延びていた。
そちらに向かうと、道はあるものの、やはり、途中に鎖が張ってあって、先まで進めないようになっている。

その場所から何気なく左手(東側)の草むらを見ると、「権現山古墳→」というA4用紙でカラープリントした道標が立てられていた。
道標から先には空を樹木に覆われたトンネルのような通路が南に向かって延びている。
右手は権現山の土手、左手は森だ。

権現山2号墳と1号墳は緑野神社に続いて訪問するつもりだったのだが、こんなところに入り口があるとは、まったくの予定外だった。
そして、権現山古墳群は豊橋市石巻本町に所属している。
もちろん愛車はその通路の入り口に駐めて、通路に入って行ってみることにした。
地面が荒れて湿った緑のトンネルの中を60mほど進むと、通路は右手の権現山山稜に向かって折れ、山陵の上に向かい始めた。

二つ目の「←権現山古墳」道標が現れると、迷わないよう両側にロープが張られた通路は急な登り道になり、石段が現れた。

この時は4月の中旬だったので、日陰の丘陵では緑よりも枯葉の方が優勢だった。

急坂を10分も登らないうちに、頑丈そうな案内板が麓に建てられた円墳状の丘の麓に出た。

教育委員会製作の案内板『愛知県指定史跡 権現山古墳(ごんげんやまこふん)  2基』の内容は以下だが、とりあえず、ここでは目の前の権現山2号墳の情報を抜粋して紹介する。

権現山古墳は、1号墳と2号墳の2基の前方後円墳からなり、権現山古墳群とも総称されます。両古墳は標高68.5メートルの権現山の尾根線上に、90メートルほど離れて築かれています。
2号墳は全長33.0メートル、後円部径24.6メー トル、前方部長は10.2メートルあります。葺石は無く、埋葬施設も分かりませんが、墳丘の裾から3世紀後半ごろの土器が出土しており、そのころに築かれた古墳と考えられます。
権現山古墳は、豊川下流域を広く臨む丘陵上に あり、古墳時代前期にこの地域を支配した有力な首長たちの墓でしょう。

立派な案内板なのだが、目の前の墳丘が何号墳なのかという表示が見当たらなかったので、この記事を書くために案内の文章や図版を詳細に読み取るまで、目の前の墳墓が2号墳であることが判っていなかった。
なので、もう1基の古墳がどっちの方向にあるのか解らなかった。

案内板には2基の古墳の測量図が掲示されていたが、下記測量図は2号墳のものだ。

大東亜戦争時に軍事施設を設けるために後円部の西側の裾野が削り取られている。
前方部は土が流れてしまったのか、形状が判別できるほどは残っていないようだ。

案内板の脇から後円部の墳頂に向かうと、墳頂下に馬越長火塚古墳(まごしながひづかこふん)と同じフォーマットの陶板の案内板が地面に埋め込まれていた。
墳頂に何かあるのに気を取られて、その案内板は後で読もうと、とりあえず撮影しておいたのだが、それが2号墳の後円部の案内板であることを知ったのはこの記事を書くために撮影した写真をチェックしてからのことだった。
現場では何号墳なのか不明の状態で観て回っていた。

墳頂には頭頂を蛍光オレンジにペイントされた境界杭の脇に素材不明の紙垂(しで)と素木になる御幣(ごへい)が立てられていて、その前に設置された拝台には枯葉の溜まった皿と小銭が残されていた。

御幣が存在するということは神道の祭祀によって、何らかの神に捧げ物をしたわけなのだが、権現山古墳と神との関係に関する情報は見当たらない。
墳上には松が多いようで、墳頂には松葉と大きな松ぽっくりが折り重なっている。

境界杭の脇から北方向を撮影したのが下記写真。

東方向を撮影したのが下記写真だが、東側は広葉樹が多い。
土手の傾斜が強く、森が深くなっている。

下記写真の南方向は前方部だが、こちら側には紅葉樹が見られる。

下記写真の西方向は松やブナ科の落葉高木がみられた。

下記写真は前方部から後円部を撮影したものだが、この写真だけが、この10月上旬に撮影したものだ。

墳頂は4月と違って、枯葉よりも緑の葉が優勢になっている。

◼️◼️◼️◼️
最初に権現山2号墳にやって来た時には、何号墳にやって来たのかも解かっておらず、もう1基の古墳を見つけることもできず、権現橋下流に架かった権現下69号橋に向かいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?