麻生田町大橋遺跡 土偶A 72:デンデンガッサリヤーの杜
愛知県岡崎市舞木町の愛宕社から、西北西930m以内に位置する大多喜町の山中八幡宮奥宮の神籬(ひもろぎ)に向かうため、山中八幡宮の杜に向かいました。
舞木町から国道1号線の南側を並行して北西に向かう路地に入り、住宅街を360mも抜けると、両手には畑地が広がった。
そこからさらに60m以上走って山綱川を渡り、農道を170mも走ると、行く手には暗い小山があり、途中に巨大な常夜灯が1基、路肩に設置されている。
その常夜灯に至ると、かつては点灯するために必要だったと思われる基壇に上がるための石段を持つ常夜灯だった。
常夜灯脇から畑地の間をまっすぐ小山に向かう農道の突き当たりにはな朱の大鳥居が設置され、時は4月の初旬だったので、その鳥居を開花した桜が取り巻いていた。
その鳥居が小山の入り口になっているようだ。
鳥居前に至ると、社頭には3段の石段が設けられていた。
社頭脇に愛車を駐めて、石段の下に立つと、石段の両側には石材置き場のように無秩序に巨石が置かれており、社号標には「山中八幡宮」とある。
朱の大鳥居は笠木と台輪、各小口を黒く染めた両部鳥居だった。
鳥居脇には例年正月三日に五穀豊穣を祈る田植神事「デンデンガッサリ」が催されているという説明版が掲示されているのだが、「デンデンガッサリ」とは田植え歌の歌詞の始まりにある「デンデンガッサリヤー」という詞が神事になったというのだが、「デンデンガッサリヤー」が何に由来していて、どんな意味かは解っていないようだ。
以下の動画を観ると、
「デンデン」は太鼓の音で、合いの手らしいことが判るのだが、「ガッサリ」は稲を泥中に差し込む所作を意味しているような気がする。
石段を上がって鳥居をくぐると、鳥居の先には朱塗りの架木(ほこぎ:手すり部分)を持つ石橋、御神橋が架かっている。
御神橋の下には水路が実在しているが橋の右手は行き止まり、左手の先には矩形の池があり、その濁った水面には桜の花びらが散っていた。
御神橋を渡った先は広場になっており、まず両側に対になった巨大な石灯籠が設置されている。
石灯籠の竿部にはそれぞれ、昇り龍と下り龍が浮き彫りされている。
突き当りの石段に至る表参道の右手には巨大な幹を持つクスノキが立ち上がっていた。
昭和60年に立てられた案内板によれば、胸高囲6.6m、樹高21mで岡崎市第2位の巨木だという。
石段の麓に立つと、石段はかなり長いことが解った。
石段の右手は深い谷になっており、石段の中ほどまで登って、登って来た石段を見下ろしたのが下記写真だ。
上記写真では石段の左側の谷に朱の橋が架かっているが、橋の先には井戸がある。
石段をさらに登ると、ニノ鳥居があり、右手には朱の建造物がのぞいていた。
石段を登りきると、広場になっており、朱の建造物は神門と回廊であることが解った。
神門は瓦葺の三門で、門の奥にも朱塗りの建物がのぞいている。
(この項続く)
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岡崎市は旧石器時代から人が生活していた地ですが、古墳時代の初期には大きな勢力は存在せず、4世紀末になって前方後円墳が現れるようになり、飛鳥時代に入り、6世紀に物部氏によって三河最古寺院真福寺や物部氏氏寺の巨大古代寺院北野廃寺が建立されました。教科書などによる常識では物部氏は神道派、蘇我氏は仏教派とされていますが、根拠の無い説であることが、三河での事象からは解ります。
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