見出し画像

麻生田町大橋遺跡 土偶A 75:手力雄命の二人の御子

かつて、愛知県岡崎市市場町に存在した藤川宿の存在に気づいたのは、Google地図上でレイラインAN(仮称)を辿っていたところ、旧東海道沿いに存在する「関山神社常夜灯」という表記にぶつかったのがきっかけになりました。そこで東から、旧東海道を関山神社常夜灯に向かっていたところ、遭遇したのが藤川宿の東棒鼻(ひがしぼうばな)、本陣跡、脇本陣跡でした。
関山神社常夜灯は旧東海道北側に面した脇本陣跡から西に60m以内の同じ側に存在しました。しかし、地図に表記されるような常夜灯ということは、特別な常夜灯なのだろうと思ってやって来た期待は見事に裏切られることになりました。

●麻生田大橋遺跡土偶A

1MAP関山神社常夜灯

2MAP 関山神社常夜灯

関山神社常夜灯は対になって旧東海道から北北東に向かう路地のあるT字路に存在していた。

1関山神社常夜灯

だが、それは通常の何の変哲も無い常夜灯であり、しかも火袋と竿部分は比較的近年にリニューアルされたもので、文化財レベルのものではなく、なぜ地図に表記されているのか理由がまったく不明なものだった。

向かって左手の常夜灯前には「東海道」の小さな道標、右手の常夜灯脇には「村社 関山神社」と刻まれた社号標が建てられていた。

2関山神社旧社頭

つまり、東海道から北に延びる幅2mあまりの路地は、かつては関山神社の表参道であり、このT字路が社頭だったことになる。

この常夜灯の持ち主に当たる関山神社に向かうことにした。
東海道のT字路から鍵型の路地を辿り、最後の急坂を登ること340m以内で関山神社の長い石段の下に出た。

3関山神社社頭

ただ、実際には340m以内で関山神社の現在の社頭に到達したわけではなく、このあたりの国道1号線には中央分離帯があって横断歩道が存在していないので、国道1号線に出てから一旦、西の岡崎方面に向かい、最初の信号でUターンして、かつての表参道まで戻って来た。

それはともかく、石段下まで登って来た坂道は石段の麓で右にカーブして東に向かって行っている。
現在の社頭になっている石段の麓脇には旧い社号標を改修して「関山神社」とした社号標があった。
石段は両側から社叢に包まれている。

愛車を石段の麓に駐めて、石鳥居の設置された踊り場まで石段を上がると、その先の石段には擬宝珠の付いた石造の親柱と鉄の欄干も両側に設けられていた。

4関山神社鳥居

石段の上には瓦葺屋根がのぞいている。

石段を登り切って、麓を振り返ると、ちょうど赤紫色と白のツートンカラーの名鉄電車が通りかかっているが、眺望はさほど広がっておらず、眺望を遮っている低山が対岸に連なっており、関山神社のある通称宮山の方が標高が高いようで海抜は160mとなっている。

5関山神社石段眺望

その中腹に瓦葺入母屋造平入の拝殿が2mほどの高さの石垣上に設置されている。

6関山神社拝殿

拝殿は柱が太い円柱で、本堂に見えてしまうが、ここから北東520m以内には一畑山薬師寺(いちはたさんやくしじ)が存在し、関山神社がその鎮守社であったか、あるいは堂が流用されている可能性がありえる。
拝殿左の建物は境内社であることが、後になって判明したが、この時は蔵だとしか思えず、特に撮影しなかった。

参道脇の手水舎の石造の水桶には左三つ巴紋が浮き彫りされていた。

7関山神社神紋

ちなみに北半球に存在する日本列島では水流も台風も反時計回り(左回り)をする。
ただ、個人的には巴は丸い方が頭で尖っている方が尻尾に見えるので、時計回り(右回り)にしかみえないんだよね(笑)
拝殿前に上がって参拝したが、拝殿右脇に建てられた板碑『社記』と境内に掲示された印刷物『関山神社の縁起』を合わせて要約すると以下のようになる。

祭神 手力雄命(タヂカラオ)
   須佐之男命
   仁徳天皇

往古当社は赤山大明神と奉称。藤川宿の鎮守として、延命富貴の神としてあがめられてきた。そもそも赤山大明神は延暦寺の僧・円仁が中国から伝え比叡山に祀ったもので、室町時代の中頃、天台宗の寺僧がその教えをこの地に伝えたものと思われる。 
宝永年間(1704〜11)本殿再建し、明治41年須佐之男命と仁徳天皇を合祀した。

[赤山大明神(せきやまだいみょうじん)→関山神社]

手力雄命を主祭神として祀った神社は少なく、これまで和歌山県で1社、愛知県で1社しか記憶が無い。
しかも愛知県の1社は関口神社と同じく旧東海道沿いに社頭が存在した。

やはり、手力雄命というと、アマテラスの岩戸隠れの際にアマテラスを岩戸の中から引きずり出した不敬な神という印象しかありません。

拝殿の右手に回ってみると、渡殿から瓦葺切妻造(流造ではない)本殿を瓦葺の白い土塀が囲んでいた。

8関山神社本殿

拝殿脇には水がほぼ干上がった小さな池と池の脇に井戸、あるいは水桶があった。

9関山神社池跡井戸

拝殿から10km近く東に離れた場所には、やはり1.5m ほどの高さに石垣が組まれていて、そこには瓦葺入母屋造平入の若宮社が祀られていた。

10関山神社若宮社

この若宮社に関する情報は何も無いが、「若宮」とは主祭神の御子神を意味するものなので、通常なら天御食持命(ミケモチ)、大矢女命(オオヤメ)のどちらかか、あるいは両神を祀った宮である可能性が高い。
天御食持命の名はウケモチ(保食神)と似ており、ウケノミタマ(稲荷神)であるのかもしれない。
一方、大矢女命は『紀国造家系譜』によれば、海人族である筑紫紀氏であり、素戔嗚尊の妃となり五十猛命(西暦160年頃出生)を産んだとある。
となると、明治41年に須佐之男命が関山神社に合祀された時に若宮社が祀られた可能性がある。

◼️◼️◼️◼️
若宮社の右脇には奥宮に向かう登山道が設けられていました。同じ東海道に面して社頭のあった津島神社の拝殿に参拝するのはスルーして関山神社の方にやって来たのは津島神社には無い、この奥宮が祀られているのを知ったからです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?