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麻生田町大橋遺跡 土偶A 128:謎の水路橋

豊橋市石巻本町の萱野橋から牟呂松原幹線水路(むろまつばらかんせんすいろ)を辿って、幹線水路沿いの農道を南下しました。

萱野橋から170m近く南下すると対岸(左岸)に鉄筋造りの樋門が設置されていた。

ここは石巻本町桑原に当たる。
樋門の向こう側(東側)には水田が広がっているので、そこに水を落としているのだろう。

下記写真に見えるように、牟呂松原幹線水路はこの樋門の下流30mあまりの場所で暗渠に入っているようだ。

なぜ、こんな場所で暗渠が必要なのか。
それはともかく、この樋門のすぐ上流には下記写真のような初めて見る設備が左岸のコンクリート壁に取り付けられていて、気になった。

コンクリートの土手から延びている黒いホースが槌状の頭の部分につながっており、柄に当たる部分がメガホンのように下の狭い用水路部分に向かって広がっている。
おそらく、黒いホースを通して用水路に排水をするための装置なのだと思われるのだが、ただ排水するだけなら、こんな形状は必要がないから、何らかの用途のある設備なのだろう。

樋門から水路が暗渠に入っている場所まで下った。

暗渠の地表はコンクリートでたたかれた立ち入りできない広場が下流に向かって延びている。

暗渠の入口上に渡されたコンクリートブロックの側面を見ると、「牟呂用水路神田川水路橋」と銅で鋳造された橋名の大きなプレートが取り付けられていた。

???
暗渠の入口に渡してあるコンクリートブロックが橋ということなのだろうか。
暗渠下の水路を神田川と呼んでいるのか?
まったく意味不明の状況になっている。
このプレート前からコンクリートの広場に沿って、農道を90mあまり南下すると川に渡された大きな橋に出た。

上記写真の鉄製の欄干の立てられている右側のコンクリート造の基壇の側面(上記写真右下部分)にさっき暗渠の入口で見たのとまったく同じ「牟呂用水路神田川水路橋」と銅で鋳造された橋名プレートが取り付けられている(上記写真では、表面が日陰になっていて、文字部分は視認できない)。
つまり、この橋の欄干基壇の断面の寸法は上記橋名プレートに合わせて造られているのだ。
それにしてもなぜ、暗渠の入口に、この橋と同じ橋名プレートが取り付けてあったのか。
地図を見ると、この橋の架かっている川が神田川であることが判った。
何だかスッキリしないまま、橋上から神田川の上流(東方向)を見下ろすと、牟呂用水路神田川水路橋の前後だけ川幅が70m近くに広げられており、ほかの部分の上流側の川幅は30mほど、下流側の川幅は50mほどになっている。

ただ、実際の水面幅は上流側が9m〜3m、下流側が18m〜8mほどしかなく、他の部分は堆積した土を背の高い雑草が覆ってしまっている。

牟呂用水路神田川水路橋を南岸に渡ると堤防下には敷地内にプールのある施設があり、水門や二階建ての複数の建物やクレーンが見下ろせた。

この施設を地図でチェックすると「愛知県森岡取水場」とある。
愛知県森岡取水場内のプールの向きを見て、牟呂松原幹線水路の暗渠がこのプールにつながっていることを直感した。
いや、かつて、つながっていたのだろう。
そして「水路橋」と言うからには牟呂用水路神田川水路橋は牟呂用水路(牟呂松原幹線水路)が神田川の上空で立体交差する水路橋だったのだと思われる。
だから、牟呂松原幹線水路の暗渠の入口に「牟呂用水路神田川水路橋」のプレートが付いていてもおかしくなかったのだ。
それでは今渡ってきた牟呂用水路神田川水路橋は何なのか。

この記事を書くために下記航空写真左を眺めると、下記航空写真右のように新旧、2基の牟呂用水路神田川水路橋が、老朽化や水害による破損などで付け替えられた可能性が推測された。

上記航空写真右の破線部(白)が牟呂用水路神田川水路橋。
破線部(黄)が牟呂用水路神田川水路橋というわけだ。
現場では渡った牟呂用水路神田川水路橋が水路橋であることを意識していなかったので、橋下に本当に水路があるかどうか確認しなかったのだが、おそらく、橋下に水管などが通っているのではあるまいか。
確認できるまでは、すべて推測の域を出ないのだが。

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この次の記事で突然、松原幹線水路が消滅していますが、この地域に「松原」は存在せず、「松原」は牟呂松原幹線水路のずっと上流域に存在する「松原」のことであることが判明します。

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