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御用地遺跡 土偶 74:遺跡と役行者

新城市の大宮狐塚 石座神社(いわくらじんじゃ)を見つけるきっかけになった石座神社遺跡がどこなのかに関して、最初に見つけた資料では新東名高速の北側となっていたので、そのつもりでほとんどの撮影をしていました。

●御用地遺跡 土偶

現地を巡っていると、石座神社遺跡の東側に樹木がほとんど伐採された山があって、

1山A

石座神社遺跡を眺望するのにうってつけの小山がそびえていたので、その山(以下「山A」とする)に向かった。

1MAP石座神社遺跡

山Aの東側の麓に南北に道路が通っていたので、愛車をその道路脇に駐めて、東側から山Aに登ろうとすると、山に登っていく階段を設置した通路が設けられていることに気づいた。
もっけの幸いと、その通路を登っていくと、通路の頭上に祠が祀られていた。

2須長 行者堂

登っていた通路は途中から急カーブして、山Aの中腹にある石の基壇上に設置された、その祠に向かっていた。

3行者堂

銅板葺切妻造妻入で向拝屋根を持った祠の正面は格子戸になっていて、中を覗くと、鉈彫りされた役行者二鬼像(にきぞう)が祀られていた。

4役行者

鉈彫りと言っても円空仏ではなく、髭などは細かな彫像が施されている。
それは祠ではなく、行者堂だった。
だから富士山の方を向けて設置されており、役行者二鬼像としては円空仏以外で初めて遭遇した鉈彫り像だった。
左手に経巻を握っており、右手には木製の錫杖、袈裟を着用しており、頭には密教の高僧の冠る頭襟型(ときんがた)の縹帽子(はなだぼうし)を被っている。

5役行者

顔相は庶民的なものだ。
役行者の左の足元には後鬼(ごき:女性の鬼)と思われる鉈彫り像。

6後鬼

杖を持っているはずの右手は体から外れているようで、円形のホゾ穴だけが残っている。
後鬼と判断できるのは左手に(分かりにくいが)水壺を持ち、モンペを履いているからだ。
後鬼はジョー・ザヴィヌル(ウェザー・リポートのリーダー)のような帽子を被り、でんちを羽織っている。
では前鬼(ぜんき)はと思って役行者の右の足元を見ると、やはり鉈彫りされたものだが、前鬼ではなく修行僧と思われる後背の付いた像が設置されていた。

7前鬼

前鬼像は紛失しているものと思われる。

再度ここにやって来た時に山Aの麓で次の目的地の場所を地図で確認していると、野良仕事をしていた地元の男性に声を掛けられた。
その人物は山Aの北東側の麓にある住居の主人らしく、山Aはこの人物の私有地であることが判った。
役行者像が素晴らしいことを伝えると、江戸時代に地元の僧侶が彫ったものであることが判った。
この僧侶が彫像した像が地元に多く残っているようだ。
話しかけて来た男性は農業を主体としているが、地質学の研究者でもあって、現在の大宮が、かなり地形が変わっていることを教えていただいた。
ただ、当方が地質に関する知識がほとんど無いことから、多くの質問ができなかったのが、残念だった。

それはさておき、山Aの頂から見下ろす眺望は絶景で、山Aの頂より高い中空を通っている新東名高速の存在感は大きく、観る者に自然の景観を立体的に意識させていた。

8石座神社遺跡

新東名高速を支える土手を築造する工事のため、石座神社遺跡は発見され、現在の遺跡の南半分は埋め立てられ、新東名高速の土台と化してしまっている。

9石座神社遺跡

山Aの南側は削り取られていて、夜間に初めて登って来た者は、いきなり地面が無くなっているので、落下する可能性のある山頂だった。

山Aを降りて、新東名高速の土手下を通っている道を西に向かうと、この部分では東西に連吾川(れんごがわ)が流れていた。

10石座神社遺跡

上記写真の左手の森に白い看板と立て看板が立っているが、これは米倉丹後守正継の墓碑の立っている場所で、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000の軍勢が戦った長篠の戦いは、ここから西2.8km以内で行われたが、墓碑の立っている場所は長篠の戦いの一部である設楽原(しだらがはら)の戦いが行われた場所で、この地にあった馬防柵を超えて織田陣営に切り込んだ武田の知将米倉正継が討ち死にした場所だという。

石座神社遺跡を北側から俯瞰できそうな場所があったので、上記地図内「撮影点B」に上がって行くスロープを登っていってみると、墓地になっていて、その墓地の入口に秋葉神社の常夜灯、空海石像、石造庚申塔が並べられていた。
下記写真は庚申塔と空海像だが、背後に見える新東名高速の土手の下に石座神社遺跡は埋まっていることになる。

11秋葉神社石座神社遺跡


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石座神社遺跡からの発掘物は弥生時代後期から古墳時代前期のものが主となっていますが、旧石器時代の小支谷(しょうしこく)と石器、縄文時代の竪穴建物などや土器から近世の炭焼窯と陶器までが出土しており、超古代から一貫して日本人の住み続けた場所であることが判明しています。

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