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本刈谷貝塚 土偶 5:貝塚の現状

このページでは本刈谷貝塚(もとかりやかいづか/愛知県刈谷市)の現状を紹介します。

本刈谷貝塚土偶ヘッダー

本刈谷神社の手水舎の東側に大きな基壇をもつ本刈谷神社貝塚碑が存在している。

9本刈谷神社貝塚石碑

北側が正面になっており、正面には以下の文字が彫られている。

   愛知県指定史跡
   本刈谷神社貝塚
 愛知県知事桑原幹根書 

貝塚名は「本刈谷神社貝塚」となっているが、現在は「本刈谷貝塚」で通っている。基壇は自然石を組み合わせて石垣を組んだ荒々しいイメージで社叢の木陰の中に位置している。
裏面には以下の本刈谷神社貝塚の案内文が刻まれている。

           谷澤 靖 撰文
 本刈谷神社貝塚は、碧海台地の西〓〓に当たる川谷市天三町〓〓〓(旧大字元川谷)の畑〓〓またがって、海水産の〓〓が断続的に分布している。この貝塚から縄文時代晩期の土器・石器・骨角器などの遺物および人骨が多数出土しているが、中でも縄文式土器は、元刈谷式土器と名づけられ、東海地方における晩期の標準型式の一つをなすものである。その特徴は、土器の口辺部を肥厚させ、その部分に細い竹を割った器具などを用いていわゆる半割竹管文系の模様を施したものが多い事などである。この貝塚は、西三河から尾張一帯を分布圏としている元刈谷式土器出土の代表的遺跡であり、愛知県下における縄文時代の晩期文化を知る上に重要な価値を持つものである。
 愛知県文化財保護条例㐧廿九条の規定により、昭和四十二年三月十七日に、本刈谷神社貝塚のうち、神社の所有地となっている地域が、愛知県指定史跡に指定された。
    昭和四十二年十月
                            〓読み取れない文字

下記写真は手前(東)から奥(西)に延びる脇参道の東側から脇参道のぶつかる西側の表参道の方に向かって撮影したものだ。

10本刈谷神社:本刈谷貝塚1

撮影当日は御神事があった日で、左側に氏子たちの自家用車が駐車されているが、最も奥の車の向こう側の銅板葺屋根の建物が手水舎。本刈谷神社貝塚碑はその手水舎左手の社叢の中に位置している。脇参道左側の細かな砂利が敷き詰められている部分が貝塚の発掘部分だ。

本刈谷神社を出て西690m以内を北から南に流れる逢妻川(あいづまがわ)と境川(さかいがわ)の河口を見に行った。

11衣浦湾撮影点MAP
12逢妻川境川河口

左側が逢妻川、右が境川で、これら2つの河川を分けて奥に延びている中洲の尽きた場所の先が衣浦湾(きぬうらわん)だ。写真の左手方向に、本刈谷貝塚が位置している。
このところ雨が多いので、水量は多い。
本刈谷貝塚 土偶の使用された縄文時代晩期にはここは川ではなく、衣浦湾の海上だった場所だ。当時の衣浦湾の海岸線は本刈谷貝塚の西160mくらいまで迫っていたとみられる。

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本刈谷貝塚 土偶と現在の本刈谷神社と関係のある部分は山神社に次いで、この地に祀られた牛頭天王と習合したスサノオがアマテラスとの間の誓約で生まれた宗像三女神、あるいはスサノオの母親のイザナミかもしれない。だから、この地域で宗像三女神、イザナミにつながる女神を探してみようと思う。

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