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伊川津貝塚 有髯土偶 19:三尸虫のために朝まで呑み会

愛知県大府市(おおぶし)大東町(だいとうちょう) 神明社の北東4.3mあまりにある大府市共栄町の神明社に向かいました。この日は名古屋市内からスタートしたので、北側から共栄町 神明社に接近する形になりました。

愛知県大府市共栄町 神明社
大府市共栄町 神明社
共栄町 神明社
共栄町 神明社

共栄町の神明社に着いてみると、前に1度来たことのある神社だった。
共栄町には共栄遺跡という旧石器時代の遺跡があり、共栄遺跡に向かう途中にあった共栄町 神明社に遭遇した。
最初にやって来た時の共栄町 神明社は、個人的に遭遇した愛知県内の神明社では2番目に社地も社殿も大きな神明社だったが、その後もこの2社より規模の大きな神明社には遭遇していない。
神明社と八幡神社は予想外のものに遭遇する確率の低い神社なので、普段は理由がなければ覗くことのない神社だった。
ところが、共栄町 神明社は社叢と社殿が見事だったので、参拝したのです。
そして、個人的には愛知県内で最も意外なものに遭遇した神明社でもあった。
最初にやって来た時は下記写真社頭の庚申塔(こうしんとう)を囲んだ玉垣の右脇に愛車を駐めたのだが、この日は何やら境内に人が多かったので、一般道路地を挟んだ社頭の向かい側にある共栄町 神明社らしき駐車場に愛車を入れた。

愛知県共栄町 神明社 社頭 庚申塔

まずは愛知県では希少な庚申塔が無事なのかチェックした。

愛知県共栄町 神明社 社頭 庚申塔

共栄町 神明社の庚申塔は頭頂が頭布型(ときんがた)に尖った板碑で、
前面には凹型の火炎枠内に「青面金剛〓〓(しょうめんこんごう〓〓)」と刻まれた文字碑だ。
下の二文字は完全に読み取れない状況になっているが、「童子」か「明王」のどちらかだと思われる。
共栄町 神明社にやって来て最初に見たときには「青面金剛」も読み取れなかったのだが、帰りにもう一度見た時に「青面金剛」であることに気づいた。
15年ほど前にやって来た時と庚申塔、共栄町 神明社ともに状況はほとんど変わっていない。

庚申塔に関して最初に庚申塔を紹介した記事で、すでに紹介したのだが、その記事が見当たらないので、以下に簡単に説明する。

●庚申塔
実際には共栄町 神明社の庚申塔のように板碑だったり、塚に奉ってある石塔だったりするものなのだが、一般に「庚申塔」と呼ばれている。
青面金剛は庚申塔の本尊の名だ。
庚申塔は道教に由来する庚申信仰で、夜明けまで眠らない信仰行事を3年18回続けたのを記念して造立されることの多い塔だという。
なぜ夜明けまで眠らないのかというと、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日〈干支(えと)が、庚(かのえ)申(さる)の日〉の夜、人が寝ている間に体から抜け出し、天帝にその人の悪事を報告しに行くとされていることから、天帝に罰を受けないように庚申の日が過ぎる夜明けまで三尸虫が体から抜け出さないように眠らないで天帝、猿田彦、馬頭観音、青面金剛などを祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。
この日ばかりは主婦でも大ぴらに朝まで宴会に参加できるので、庶民にとっては日常のガス抜きになる行事であったようだ。
共栄町 神明社では庚申塔が鳥居の外側に設置されている。
仏教系(日本に導入したのは天台宗とされている)のものだからだと思われる。

境内では複数の人たちが幟柱の作業をしている。

共栄町 神明社 社頭 幟柱/石鳥居/拝殿

彼らはこの神社の氏子さんたちだった。
聞けば昨日が祭りだったという。

氏子さんたちの邪魔にならないように拝殿に向かった。

共栄町 神明社 拝殿

拝殿は瓦葺切妻造棟入で木部はすべて柿茶に焼けている。
神明社の総本社である皇大神宮(伊勢神宮内宮)の本殿の地下にはキリストの磔刑に使用された十字架の現物が収められているというトンデモ説があるが、共栄町 神明社の拝殿に掛けられた注連縄と鈴の緒で多いな十字架ができていた。

共栄町 神明社 拝殿 注連縄/鈴の緒

拝殿前に上がって参拝した。
境内に案内書は無かったが、祭神は以下。

・天照大御神 ・倉稲魂命
・豊受大神  ・伊弉諾尊
       ・伊弉冉尊

本殿の脇に回ってみると、西側も東側も瓦葺の(ついじべい)が設けられており、内部に吹きっぱなしの切妻造平入の本殿覆屋が設けられていた。

共栄町 神明社 本殿覆屋

覆屋内には銅板の大棟を乗せた檜皮葺神明造の本殿が収められている。

共栄町 神明社 本殿

本殿を覆った築地塀の東西の外側には1.5mほどの高さの土壇が設けられていて、西側の土壇上には津島社(素戔嗚尊)・山神社(大山祇神)・御鍬社(月読神)の3社、東側には秋葉神社(火之迦具土大神)・金比羅社(大物主神)・御霊社の3社が祀られているが、社の大きさはマチマチで、山神社がもっとも大きかった。

拝殿前の広場の東側には社叢の茂った土手があった。

共栄町 神明社 東側社叢

上記写真の社叢の根元に2カ所森の中に向かう道があるのが分かるだろうか。
右の道は以下のように石板を敷いた社叢の中を通る脇参道になっている。

共栄町 神明社 東側社叢内 脇参道

この参道に入って行くと石段の上に2社の境内社が祀られていた。

共栄町 神明社 東側社叢内 境内社(山上社/御嶽社)

表札によれば、左が山上社(大己貴命)、右が御嶽社(おんたけしゃ)だが、御嶽社内には役行者像が奉られていた。

共栄町 神明社 境内社御嶽社 役行者像
共栄町 神明社 境内社御嶽社 役行者像

山上社と御嶽社の参道からは右手(南)に参道が枝分かれしており、境内社稲荷社(倉稲魂神)が祀られていた。

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共栄町に存在する共栄遺跡はレイラインからは外れていますが、愛知県下唯一の旧石器時代遺跡です。個人が昭和59年4月に採取したものだそうです。区画整理事業により、遺跡のほとんどは消滅してしまったとのことです。

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