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三河天野氏の本拠地を眺める【研究ノート:天野氏】

三河国額田郡中山庄岩戸。
南朝方となり犬居を出た秋葉城の天野遠幹・遠貞父子は、「浪合記」に記された尹良親王・良王の物語の後、現在の岡崎市岩戸町に隠居したという。
これが「中山岩戸の天野」と呼ばれる三河天野氏の祖である。

先日、香嵐渓へ紅葉狩りに行ったついでに、その本拠地である中山庄へと足を運んだ。このようなご時世だから、自家用車で行き、誰と話すことも何かに触れることもなく、ただ行って来たのみである。

中山庄が具体的に何処であるかを明確に示す記録はないが、恐らく、乙川中流域の、現在の桜形町から田口町辺りを指すのではないかと考えている。

松平氏(初代親氏とされるが、実際には3代信光ではないだろうか)による中山十七名征服話では、まず松平郷に近い林添(豊田市林添)の藪田源五忠元を討ってから中山庄へ手を伸ばす。まず麻生城(岡崎市桜形町)の麻生蔵之助を討ち、続いて大林城(岡崎市鍛埜町)の二重栗内記を討った。すると田口(岡崎市田口町)の中根、秦梨(岡崎市秦梨町)の粟生、岩戸(岡崎市岩戸町)の天野、柳田(岡崎市桜形町)の山内の各氏が松平氏に従ったという。
名(みょう)というのは平安時代から中世の国衙領や荘園において、徴税のために設けられた単位だ。取り敢えず村くらいに思っておけば良い。

香嵐渓がある豊田市足助は、「塩の道」である三州街道の宿場町だ。三河湾から飯田、伊那を経て塩尻まで、塩を運んだ道。この道中に「浪合記」の舞台が散らばる。

その足助から南西に向かい、松平や岩津といった松平氏ゆかりの地を抜けて岡崎へ至る道が岡崎街道だが、国道420号から437号へと南へ抜けて乙川沿いへ向かう。

麻生城があったという岡崎市桜形町。松平氏によって麻生氏が滅ぼされた後、一時天野氏が入ったようだが、最終的に滝脇松平家が入った。
その地にある阿弥陀寺には遠貞の長男長弘が寄進したという当麻曼荼羅があるらしい。

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須淵町の素戔嗚神社は、「士林泝洄」によると長弘の次男が神職を務めた。長弘の弟・忠勝の玄孫・貞久が主君松平信康自刃後に蟄居したというのが須淵である。あるいは親族が神職であったこの地にいたのかもしれない。

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この神社の社叢は市の天然記念物に指定されている。が、私が気になったのは社殿前の広場だった。一般に神社の社殿前というのは「玉砂利」というように丸い石が敷き詰められているものだが、どうも角張った石が目立つ。しかも砂はキラキラと輝いていた。

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この後、下まで下りると「石の公園団地」なるものが出現した。岡崎は御影石(花崗岩)の産地なのだ。四角い石は長石、キラキラしたのは白雲母だろうか。石には詳しくないから「石都岡崎」とか「岡崎御影」とか知らなかった。石垣造り放題か。

須淵の下が岩戸町である。今は頭上高くに新東名が通り抜ける(私も行きに通った)。下から見るとえげつないほど高い。
岩戸城は現在の神明社辺りに比定される(見出し画像が神明社である)。その奥、正蔵寺は元は宝福寺といい、遠貞が応永31(1424)年に創建したとされる天野氏の菩提寺だ。行ってみると本堂の裏手に磐座のようなものがあった。岩戸の地名は伊達ではない。

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そこから丘陵を切り拓いた墓園を抜け、板田町に出た。忠勝の子・利貞が領したのが板田だ。
板田から東の箱柳・小呂の辺りが御影石の産地らしい。乙川の北側が花崗岩質だろうか。

…と、本当にただ行って見てきた。もっと寄りたいところはあったが、地元の方に声を掛けないと入れないようなところは今回は避けた。


出掛けて1週間以上が過ぎたが、私も同行者も体調には一切問題はない。


ところで天野氏に関係ないが、今話題の岡崎市長は田口の中根氏の御子孫なのであろうか。ちょっと気になっている。

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