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心の棘

 田舎に生まれ田舎に育っても、私はいつも心の中に棘を抱えている子どもだった。思春期は特に闇が強く出ていたのかもしれない。外見を一番気にする年頃に、当時の主流の女の子らしい傾向には馴染めず、どこかフリフリのフリルを纏う人達には交わらない、偏屈な主張を含ませていた少女だった。当然周囲から浮いた存在に見られていたのだろう。

 それはおそらく私が育った家庭環境が、大きく影響を及ぼしていたのだと、今だからわかるが、多くの同じ年頃の生徒に関わる職業とする人には、きっとそれは見分けの付くものだったのだろう。だから私は部活動の顧問の先生からは、何かにつけ気にかけてもらっていた。目を付けられていたという表現もあるが、厳しく監視されるというものではなく、危なっかしさを見守ってもらっていた感覚に近いものだったと思っている。

 その恩師が先日亡くなった。親世代の年齢なので、大往生と言えるのかもしれないが、何かとても深い喪失感の様なものがまだ消えていない。その想いを探る中で、自分自身の昔を少しずつ思い返していた。

あの頃の私がどんな日常を過ごし、何を考え、どんな想いを抱え、どうやって通り越してきたのかを振り返る中で、すっかり忘れていた好きだった音楽に辿り着くことができた。

 思春期には誰もが出会い夢中になった音楽があるだろう。私にもあったけれどレコードを買ったり、コンサートに行くほどのめり込んだことはなかった。それでも好きな曲を聴きながら、心の中の棘々とした感情が浄化されていく感覚を味わえた音楽が私にも確かにあった。 

 ステレオコンポ等もない乏しい音楽環境でも、とても入り込める曲があった。その中で思い出したのはレベッカの曲だ。友人同士好きな歌手の話はよくしても、私はいつも聞く側で、親しい友人とも私が好きだった曲について話すことはなかった。それは私の中の闇を誰にも話すことがなかった事と同じなのかもしれない。

 ふと思い出してから、記憶を辿りつつ検索してみると、私が見たことのなかった古いライブ映像も出てきて、あらためてレベッカの世界観に引き込まれた。若さだけではないパワーと表現力、声量、そして当時は気付けなかったダンスの安定感。圧巻というだけではなく、私も映像を通して若くてかわいい思春期の自分を見ているような気持ちになった。

 何にというわけではなく、漠然と想い悩みを抱えていたあやふやな思春期。その時期に私にも伴走者の様な音楽があったことにハッとした。その時は意識していなかったのだが、たしかに有ったのだと認識した。

その時期を通り過ぎて、私も母になり、子育ても終わりが見えた時にあらためて憧れた音楽に出会って、その憧れの人も年を重ねてお母さんになっていた事を初めて知った。時間が経っていた事をしみじみと感じている。

 私の心に刺さっていた棘も時を経て、きっといつの間にか自然と出ていたのだろう。