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 このところインターネットでアパレルメーカーのオンラインショップばかり見ている。地方では取り扱う商品が限られているし、実店舗ではサイズ限られているので、コロナ禍になってからは割とオンラインショップを利用している。
いわゆる通信販売からは、かなりの期間離れていたので、その充実ぶりに戸惑った。どれくらい離れていたかと言えば、Amazonが書籍しか扱っていなかった頃だから、戸惑うのも無理はない。私の認識ではAmazonは今でも書店なので、利用する事もほとんどないが。

 服を選ぶ時の基準は、当たり前だけどデザイン、サイズ、価格になるけれど、デザインの部分では誰もがそうであるように、見た目、人にどう見られるかに重点をおいてしまう。実店舗ならば試着して、量販店でなければお店の人にいろいろ聞いてみるけれど、オンラインショップだとそれができない。セール品のお得感からアウトレットサイトもよく見るが、似合わなかった時に返品ができないのでかえって高く付くことになる。

私の「人にどう見られるか」という基準には、どうしても「ご近所さんにどう映るか」という事に重点を置いてしまう。全くくだらないことなのだが、狭い田舎の人間関係の中で、僻みや妬み嫉みを抱かれてしまうことがどれほど厄介で疲弊するものかということを経験してしまえば、自然とそうなる。

 
 だけど画面越しに服を眺めている時は、私にとって至福の時間なのだと気付いた。買うことも着ることもできなくても、素敵な服に出会えることは、それだけで人生が豊かになった気がする。

 思い出せば、私は幼少期から服に対するこだわりが強かった。裕福ではなかったので、好きな服を好きなときに買ってもらった記憶は無い。だけど、わたしにはお気に入りのスタイルがあった。まあ幼児の感覚なので、センス云々は言えないとは思うが、与えられたものをなんでも素直に受け入れる事はなかった。
 
私には伯父伯母が多く、従姉妹はみんなひと回り以上年が離れていた。年上の従姉妹からのお下がりの服が私の家にたくさん届いていた。それがあったから母は私に新しい服を買う必要がなかったのだけれど、押入れ一杯のお下がりの箱の中にはいろんな服があった。
幼児の私が服にこだわりが芽生えたのは、良くも悪くもたくさんの服があったからなのだろうが、私の服のこだわりを母に認められた記憶はない。