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難病をけちらして vol.1

FBで病気の話が出て、一度は書いておきたいとおもった次第です。書いていたら「読めば宮古!」までの道のりを思い出していました。

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「病気は神様からのおくりもの」

まぁ、ちょっと暗い話なのだけど、その言葉が私を支えた時期があります。
そう思うことでしか、病気の自分を納得させることはできなかったのかもしれない。発病時から20年近くなるので、もう何かぼんやりとした記憶しかないです。

病名は特発性血小板減少性紫斑病。国指定の難病です。
難病情報センター | 特発性血小板減少性紫斑病

いきなりのカミングアウトですいません。全国に2万人程度というニッチな病気です。後にアメリカではジュリア・ロバーツさまがなったので、結構ニュースにも出ていました。

私の発見時は、かなり危険な状態で、数年にわたり長期入退院を繰り返し、身体より心のほうが病んでました。「病院から出してくれなかったら、病院の窓から飛び降りて死ぬかもしれない」と、医者に泣き落としをして退院していました。その後、この病気の研究者との出会い、妊娠出産などなどがあって、現在は驚くほど健康です。

「病院から出してくれなかったら死ぬ!」と叫んでいた時に気づいたのですが、私の人生の優先順位は、生きているという実感があること、自由であること、だなと。

いや、もともとそうだったのに、現実の人生に合わせて頭でっかちになっていたから、むりやり引き戻されたのではないかと思います。そして、私の身体は子どもが産みたかったのですね、きっと。野生のままに生きたかったというか。ある意味、身体優先で、考えずに生きたらどんどん病気が治っていきました。

「なるようにしかならない」と人生を放り投げて、身体のままに生きることが私にとっては唯一の治療だったのだと思います。薬は効かなかったものなぁ。

当時は手術という方法もあったのですが、インターネットのはじまりくらいで、アメリカの研究結果を手に入れて、それを証拠にして主治医と手術をしないかどうかで、激論になりました。今考えると、手術をしないという私の判断は正しかったです。あぁ、自分の命を簡単に人には預けられない。

現在は、寛解という状況なので、一病息災くらいに頭のなかで処理しています。ほぼほぼ治ってます。とりあえず、

「生きているという実感があること」
「自由であること」

それさえ、おさえておけば大丈夫・・・私は、ですが。

ただ無理をしないように、特に心が無理をしないようにとだけは考えています。なので、心や感情を最優先にしているのかもしれません。情熱の向く方向から目をそらさないように、と。頭で理解しただけで、物事を判断しないようにしています。感じるままにまかせておくというか。

そして、嫌なことはできるだけしない。人を守る嘘はついても、自分を守る嘘はつかない。言いたいことは言う。というか、言いにくいことも伝える努力をする。

全部言えるわけではないし、うまく伝えることができるわけでもないけれど、伝えたいということがあれば、できるだけ真心で話す選択をします。言葉を尽くすこと。相手に聞く耳がなくてもそれでも語りかけること。

誰かと不調に終わっても、向き合わなかった後悔よりも、向き合ったほうが後悔は少ない。その方が私の心には健康なのです。そして、身体も健康になる。

病気を通して、どんな形でも人との係わりをなくしては生きていけないとも感じました。

美辞麗句に聞こえるかもしれないけれど、私は嫌いな人はいない。どの人にもどこか自分に近しいものを感じる。これは、とても宮古的な感受性なんだろうなと思う。人の痛みがもろに身体に伝わるのです。幼い頃はみんなそうだったんじゃないだろうか。大事な友だちが膝をすりむいて泣いていれば、自分も泣いていたじゃないですか。

大人になると、心の痛みは、みんな泣かずに上手に隠すから、心の闇みたいになる。たまに、その闇に気圧されて、身体が痛くなる。相手の病気の前兆みたいなものを身体のほうが先に感じるといえばいいだろうか。

だから、宮古の人は、人のためにではなく、自分のために相手を助けるように身体も頭も自然に動くのじゃないかと思う。原始人だな、多分。

対人関係で不愉快なことがあっても、最初は怒ったりするのだけど、結局は、なぜその人があのような行動をしたのだろう、という方に考えが向く。そして、どう動こうかと自然に考える。

そんな私にとって、人を嫌いになるのはとてもむずかしい。自分を嫌いになることと同じだから。

でも、どんなに頑張っても、時間や場所という物理的制約があるから、何においても、できるだけ、できるだけ、なのだ。一所懸命であること。それが病気をしない唯一の方法なのだと思う。他の人に有効かどうかはわからないけど、一所懸命であると細胞が活性化するような、そんな気がする、笑。

人は自分というロウソクをきちんと燃やさないと、不完全燃焼で、ガラクタになる。

まぁ、明日はわからないけれど、今日を生きること。なんのご縁かわからないけれど、今ともにいるひとと、楽しく過ごすこと。それは、今、この珈琲館で書いていて、となりの若いお兄ちゃんにも感じるのです。まぁ、相手はなんのことかわからんと思うけど。でも、きっと今、地震とか火事とかあったら、助け合える気がします、笑。

話を戻します。

病気になってよかったことは、人生の軌道修正が計れた、と思うからです。病気は重ければ重いほど強制力がある。今までの人生をねじまげる。事故や突然の不幸も同じような意味合いを持つと思います。

そして、自分が今まで辛抱ではなくて、我慢してきたことがわかった瞬間に、コップの水があふれるように感情によって、耐えきれない自分が行動してしまう。そして、状況が動いて、いやがおうにも舵を切らされる。

病気は、コップから水があふれたものが身体に出るのではないかな。理性ではコントロールできない。

でも、本当は、人生が本来の場所に戻ったのかもしれない、と思うようになった。それはもう何年もかかったし、いろんな人に助けてもらいながら、たどりついた結論だけれども。なんというか、「病気は神様からのおくりもの」だから。私の神は宮古の神で、それも唯一神でもないので、かなりもやっとしてますが。宮古の自然、なのかな。

自然であれば、高きから低きに流れてもいい。その水は、よどまずに台風が流し去ってくれる。

人の感情も同じだと思う。苦しいことは、遠慮しないで誰もが誰かに話したらいいと思うようになった。だから、私もいつも聞こうと思うし、自分の感じたことは正直に言おうと思う。

苦しいことは吐き出してしまえばいい。吐き出したら、新しい空気が吸えるじゃん!と脳天気に考えるようにもなった。

そのためにも、自分の欲望や本能にできるだけふたをせず、多少、人に迷惑をかけても「おたがいさま」といえる関係がどれくらい築けるか、なのかな。

量も深度も、相対するひとによってそれぞれだとは思うけれど、自分の人生の基本線はそこにあるような気がする。あくまで、私のです、私の。

心が開くっていうことは、そういうことではないかな、と思う。私は多分、ある程度開いているし(開けっ放しともいう)もっと開いていきたい。開けば開くほど、自分という種は、より密度を増すからだ。

開いたことで、受け取ることができるものがある。人の優しさや切なさやさびしさや憂いすらも、自分に集めて留めることができる。きちんと種らしい種になれる。もはや人間ではないかもしれない、笑。島のおばぁたちを見ていると、いつもそう思う。優しくて厳しいけど、正直だ。種のように若い。

そして、目の前のひとの心に潜るように関係を作っていきたい。その人が持つ優しさをしっかり感じたい。私は、若い頃、そういうことを軽視して、島の人らしくいなかったから、病気をしたのだと思う。自分の本線からはずれていたのだ。当時は人の悲しみや苦しさをはねのけて、知らんふりしてた。だから、その先にある優しさにふれることもなかったのだ。つまらん。おばぁになれん。

自分が生きるエネルギーはそういうことからしか得られないタイプ、ということに気づくのに時間がかかりました。18年もそれで育ったんだから、いきなり洒脱な方向には無理がある。

今は、現実的な「切った張ったの世界」より、夢想的な「潜って眠った世界」を選びたい。大きな希望のある世界より小さな安らげる世界がいい。

神は細部に宿る、のだから、って言い訳をしてみる、笑。

前は、小さな世界の集まりが大きな希望につながることにに気づかなかったとも言える。今は、まず小さな世界を安らげて、ほかの小さな世界と仲良く隣り合わせていたい。そしたら、いつか大きな希望のある世界がつくりだせるかもしれない。ついでに、泥臭いけど洒脱なおばぁになりたい。

病気をする前は、そんな風に思えないほど、私は人とつながっていなかった。社会や他人のものさしを気にして、心はどんどんこわばっていった。過剰適応をしていたのかもしれない。

そして、心がこわばる限界に達すると、人は病気になるのだと思う。

20代の私は、表面的にはとてもうまくいっていたように見えたと思う。でも、心の奥底では、まるで違う文化背景の人のなかで、心がこわばっていたのですね。日本と宮古は真逆のボディランゲージを持つことがあるから。そして、その時、私は勇気がなくて「あなたはどう思っているんですか?どう感じているんですか?」と聞けなかった。アホだったな、笑。

病気になったのは、東京にきて7年目くらいだったから、臼歯が生え変わるように、すでぃる(メタモルフォーゼ)途中だったんだろう。それほどに宮古と日本が違ったのか、私の感受性がマイノリティ気味だったのか、今はもうわかりません。

「きちんとやろう」「なんで怒られるんだろう」「誰かを傷つけなかったかな」「もっと頑張らなければ」。そんな考えの繰り返しで、私は疲弊して、すり減って、小さくなって、病気になったのだろうと思います。

今は、適度にずうずうしく、自分の言ったことに刃で返されても、ちょっと切った張ったのふりまでできるようになりました。だから、多分、しばらく元気だと思います、はい。

そのためには、人は大きく休むことが必要かもしれない。私のような弱い人間は特に。愛情の感じられないところでは生きていけない。多分、島はそのへんが有り余るほどのパワーで、18年もの間、私を包んでいたのだと思う。

病気をして初めて私は島をふりかえった。そして考えて考えて、みんなと本を作った。もし、難病にならなかったら「読めば宮古!」は、できなかった。そして、編集者の新城さんや支えてくれた仲間がいなかったら、熱中することがなかったら、私は確実に死んでいたように思う。

すっかり忘れていたけれど、病気すらも愛おしい自分の一部だったと思える今は、あの頃の自分に声をかけてあげたい。激しくそう思う。こういう時、ドラえもーん!と叫びたくなる。タイムマシーン、プリーズ。

追伸
全然関係ないけど、高校の時に撮ったホラー映像があるのですが、それは血液の病気で寝たきりの役でした。まさか十年後、そうなるとは思いませんでした。何か予感してたのかな。あー怖っ。

そして、14年目なのに、なんと今年も増刷がかかった
読めば宮古!―あららがまパラダイズ読本

ありがたや。

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