プルカレーテ版「リチャード三世」 古典を活かす意味。

1:改めて考える、古典を上演するということ。

 少し昔の舞台の話を許されたい。
 2017年10月、東京芸術劇場を皮切りに4都市のツアーを行った「リチャード三世」。ルーマニアの巨匠シルヴィウ・プルカレーテ氏の演出により日本人キャストで制作されたプログラムです。
 当然全公演は終了していますし、再演の話もございません。
 残念なことにDVDにもBlu-rayにもなっていない。
 先日NHKBSプレミアムの「プレミアムステージ」で放送されたのも既に二度目ですから、この先更に放送があるともわかりません。

 そんな舞台の話を何故今更書くのかと言われれば、再度テレビで見たら改めてその良さを確認したからです。
 残しておかなければなりますまい。
 あわよくば三度目以降の放送の為、そしてプルカレーテの新作が来たぞというときに「過去作が良かったので新作も期待できます」とすかさず叫ぶ為。
 下心をはっきり書くのも、単なる懐古ではなく又見る機会を増やさんが為です。せめて、ルーマニアで制作されたというこの舞台の制作現場ドキュメンタリー映画を日本で見る機会をどうか……。

 この舞台が時を経て心を離さないのは何故なのか。
 まず古典の持つ普遍性の強み。
 そして初演から時間も空間も遠く離れた場所で、古典を上演することにどんな意味を持たせるかという演出の絞り込み。
 この二つが効果的だったことに尽きます。

 古典、というのは面白がられているから残るのであって。
 作中の「当然」が観客にとっても「当然」という共通認識が、時代や場所と共にズレていっても尚「面白い」という感覚が残るところが大事なのだと思います。
 人の喜怒哀楽は変わらない、という単純な話よりも見方や解釈を変えても同じ話と認められる幅が大きいのではないでしょうか。
 主人公を変えてみる、善悪を逆転させる、背景の一部だった話をクローズアップしてみる……大本となる話の構成が強いから、見所を変え訴えかけるポイントを変えても元の物語を見失わない。
 作品が抱えてきた上演の歴史と共に、何を話の中心とするべきかという言うなれば実験記録が膨大にあり、それ自体研究の対象ともなっている。
 裏を返せば上演に際して「テーマ」があやふやだと膨大な実験記録群の中に埋没してしまって、単に古い台本を上演しただけのつまらない舞台になる可能性が高いということになります。
 上演しただけでは既に初演時・初演地の民ではない私たちに、本来の楽しさは伝わらない。
 時代ごとに見所を変えられる力があるから、どの角度から見るかを決めることで古典は新しくも古くさくもなる。
 ここに演出が問われてくることになります。

2:何のために、何をするか。プルカレーテ氏の演出 

 シェイクスピアの「リチャード三世」は薔薇戦争を主題にした三部作の掉尾、お家騒動の終焉から支配王朝そのものの交代劇を描く史劇です。
 戦争の歴史、関わる人の思い、運命の話、そして悪。
 物語に含まれる様々なテーマの内、プルカレーテ氏が選んだのは「悪徳」になります。
 誰の心の内にもある「悪」。
 リチャードは元々軍人ですし、物語の始まる前から内戦で人殺しを重ねています。殺した相手にはマーガレットの夫と息子を含み、これが彼女の呪いの元となる。嘘と計略で人妻を得、裏切りを重ね、人を殺し続け幼い甥まで手に掛ける。
 マーガレットの呪いによってもたらされるのは不信。信じて裏切られるという事は、自分が裏切ってあざ笑った相手の立場に自分が落ちる事を意味するから誰一人信じられなくなる。王位という富貴と権勢への欲だけでなく、虚栄心と恐怖心がリチャードに「悪徳」を極めさせる。
 そして、滅ぶ。
 通常、悪は倒されることによって物語にカタルシスをもたらします。
「リチャード三世」なら通常リッチモンドという「善」がリチャードという「悪」を倒してめでたく終わるのです。
 本作でリッチモンドをざっくりと切り捨てたのは、「悪」は倒されて人の心から消えるものではないという点でもあるからか。
 悪は、誰もが心に持つ弱さである。
 時代と国の異なる地域で、時代と国が異なる人と言語で上演する意味を普遍的な人の「悪徳」に求めるなら、歴史の帰結上たまたま「善」の側に立てるリッチモンドは確かに不要です。
 対立概念としての「善」が無いんでしょうね。
「悪徳」を極めたはずのリチャードが、脆くも自壊していく様の哀しさと切なさ。
 そもそもリチャードが「悪徳」を志したのは作者の意思だ、という演出が「代書人」という役の存在で示される。
 誰もが運命の気まぐれで「悪徳」を志す存在になりうる。
 リチャードひとりが悪いのではなく、誰しもが持つ心の要素だけで誰も処断されるべきではなく、それでも悪に流されていく弱さは自壊へたどり着く他にない。
 悪を否定しないことと、悪を自制できないことを否定することは両立する。
 冷徹であり優しくもあるこの二面性が、この舞台最大の魅力ではないかと考えます。
 普遍的な「悪徳」の話を今、この場所で上演する意味を重視するからこそ今、この場所での共通認識に近いツールを使う。
 底本は口語文が滑らかな木下順二訳。古典風を織り交ぜながら現代的な衣装、抽象的なセット。
 視点の切り取りと現代的な表現に置き換えても尚、古典としての骨格を失わないのはプルカレーテ氏の原典に対する深い理解と敬愛あってこそ、と思います。
 エドワード四世もクラレンス公ジョージも出番は多くはないのですが、
彼らが主要人物となる「ヘンリー六世」をこの「リチャード三世」のキャストで見てもおかしくなかろうな、と思わせるところがあるのがその証拠ではないかと思います。
 狡猾で貪欲、女好きのヨーク公エドワードを阿南健治さんで、放埒なトラブルメイカーでしかないクラレンス公ジョージを長谷川朝晴さんで、想像すると「いける」としか思えない。あれは邪気なく可愛い方が冷酷さが映えて怖いタイプの悪党……。
 時系列の連なる前日譚とキャラクターの整合を取るのは、上演する演目単体で見れば必ずしも必要ではない事です。
 それでもそこまで想像を遡らせることができるなら一層深く楽しめる趣向であって、その深さは「古典」としての骨格そのものの持ち味です。
「ヘンリー六世」の戦場で一番働いていたリチャードと、どれだけ悪女扱いだろうと最後まで抵抗を続けていたマーガレット。
 二人のリベンジマッチは、この舞台に「善」を司るリッチモンドが居ないからこそ引き立ちます。
 悪と悪。
 マーガレットも善ではない。リチャードの「悪徳」への傾倒を一層加速させる「呪い」を吹きかけていくのはやはり悪の所業です。
 自壊するリチャードと共に、マーガレットも杖を残して消える。
 ヨーク家の破滅に引き込めたから彼女の勝ちなのか、自分も消えてしまうのだからドローなのか。
 性別、老若、王家と落魄、あらゆる属性を正反対にし、共に異性装と杖という道化或いは狂者のモチーフを身に纏う「正反対故同質」に表されている二人を考えると、どちらも「悪」故に共に消えるのがふさわしいように思われます。
 リチャードが呪いのもたらす不信の果てに自滅するなら、呪う対象が消えたときにマーガレットも存在の意味を失うのです。
 幕切れに現れるのは作者の意思「代書人」。一人残されたリチャードに運ぶ「運命」はねぎらいの煙草と道化の付け鼻、そして自ら消える為の銃。
 下りる幕、暗転の内に響く銃声。
 そういう「悪徳の滅び」の見せ方は、勧善懲悪物語でもある原典よりぐっと洗練されて現代的です。
 オリジナリティの出し方が原典に対する甘えに堕していないのですね。

「自分たちの舞台」という誇りとそれが原典に背かないという自信、その源は原典への敬愛。
 そうなるべき理由が氏の中に整合している、誇り高い演出でした。

 奇抜な衣装と白塗り、ジャズやテクノのテイストが含まれる音楽、独裁政権下でよく見られたという権力者との良好な関係をアピールする接吻、拡声器にチェーンソー、女性の役も男性のみで進められる舞台に現れる男装女性の「代書人」。
 目に立つ要素は沢山あっても、そのそれぞれにそうなるべき理由がある。その全ては「悪徳」をテーマとして「リチャード三世」を作るという目的の為、個々のシーンを検討していった結果になります。
「プレミアムステージ」のインタビューで、プルカレーテ氏は
「私は『あれこれをどう演じるべきか』とは決して言いませんでした」
「私は様々なシチュエーションのメカニズムを説明しただけなのです」
 と語っています。
 役者一人一人を信頼し、その持ち味を生かす演出でもありました。
 自分たちの「リチャード三世」はどのようであるべきか、検討したことを共有して理解を深めているからこそ、一風変わって見えるシチュエーションが悪ふざけのように上滑りしない。
「すごく勉強になりました」という主演佐々木蔵之介のコメントも尤もだと思うのです。
 見る側からしてもすごく勉強になりました。
 色々なことを考えましたし、「リチャード三世」を訳者違いで複数読み、世界史年表を片手に「ヘンリー六世」まで読みました。
 普段、馴染みのないものへ導く扉が、この舞台の向こうに繋がっていた。そういう力のある舞台です。
 だから、後からこの舞台を見られないのは惜しいなと思うのです。

 映像は存在している。けれど好きなときに手の届く場所にはない。
 これがものすごく悔しい。
 公営劇場の制作、値段は抑えて公演数も多い「できるだけ沢山の人に見る機会を作る」劇でした。
 でも演じている人は生身で、劇場の席数は限られていて、いろいろな事情があって公演中の劇場までたどり着けない人が沢山いる。
 簡単に「配信してくれ」「ディスク化して売ってくれ」と言うのが軽率だということは、素人なりにわかっているつもりです。
 公営の施設が利益を出せば私設の劇場との格差が出る。推定でしかありませんが補助金の条件も面倒でしょう。その上現実に利益を出すのは難しい。
 勿論生で見ることを前提に作った表現は生で見るにしくはない。
 映像に残っているミスやアクシデントが不本意だという出演者もいるでしょう。そもそも演劇は水物。価値観の移り変わりも激しい中、古いステージの映像を見るくらいなら今の劇を見て欲しい、ごもっとも。
 けど、今までだって「あの舞台がすごかった」と聞かされても伝わらないことが沢山あった。
 どれだけすごさを聞かされても、見たことの無いものは想像が及ばない。
 何故松竹が「シネマ歌舞伎」を作り宝塚はこまめに公演の映像を売るのかと言えば、それが確実に顧客を増やす手段のひとつだからです。
 似た経験は別の経験を想像する礎です。
 想像したこともないもの、思った程面白くないかもしれないものに、チケットの代金を出し、観劇の時間の確保をやりくりできる層は減っています。
 プレミアムステージの放送も勿論ありがたい、拝むしかない。
 しかしそこまで来たのなら、あと一歩。
 世界有数の演出家の仕事であるからこそ、もう一歩。
 すごいものを基礎にしないと、すごい後続はできあがらない。プルカレーテ版「リチャード三世」は、色々な人のおそらく演劇に限らない表現の礎になるだろう舞台でした。

 いいものを作れば人は来るのか。
 否。
 来るような人を育てるものがいいものです。
 見せるのが、先。
 残して、見せて、育てる為の道筋をどうか考えていただきたい。
「自分でダビングして回せばいいじゃん」という話じゃなくて、ですね。
 見たいな、と思った人が自分でたどり着ける正当なルートを確保したいという話でありまして。

 だから「本当にいい舞台だったんだってば!」と叫ぶ他ないのが情けないのです。
 せめて望めるなら三度目以降のテレビ放送、そしてプルカレーテ氏再度の招聘。そしてルーマニアで制作されたというこの舞台の制作現場ドキュメンタリー映画を日本で見る機会を心の底から望んでいます。

 最高だったんだから。

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