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ラルゴの旅立ち

昨日2021/08/05未明実家で愛犬のラルゴが旅立ちました。15歳でした。
2006年の春、今は亡き東宝撮影所横の日曜大工センター内のペットショップにいた彼女を僕と弟と母が見つけました。子犬にしては少々育ち過ぎて、ラブラドールレトリバーとしては破格の値段に値下げされていた彼女を見た僕達、特に母はこのまま誰の元にも渡らなかった時の彼女のことが容易に想像できました。その日のうちに母は父に相談し、その日の夕方彼女は佐橋家へとやってきました。彼女の穏やかな性格と、そのまま穏やかに育って欲しいという理由から、音楽用語で「ゆったりと」を意味する“ラルゴ”と命名されました。
ラルゴが佐橋家に来る少し前の話に遡ると、彼女が家に来る一年前頃、佐橋家はボーダーコリーの子犬を引き取る予定でした。事前に“アリア”と名付けられていたその子は、残念ながら佐橋家に来る直前に病死してしまいました。その事もあって、最初に佐橋家にやってきたミニチュアダックスフントのチョコに次ぐ2人目の家族をいつ迎えようかと検討していた時期でもありました。
ラルゴは気が弱いくらいに穏やかで、物静かな子でした。毛並みも良く、黒い毛の一部、首の下に白い縦の線が入った珍しい毛をしていました。気が強くプライドの高いチョコの妹分として、いつもチョコを立てて、喧嘩することもなく静かに横に控えているような子でした。チョコは何事も行動してから考えるタイプの子でしたが、ラルゴは行動する前に考え込んでしまうタイプの子でした。
母は元からヤンチャだったチョコ以上にラルゴを丁寧に躾けていました。時に厳しく叱り、時に優しくものを教えていました。今思えばチョコが先に旅立ってからラルゴがイタズラをしなくなったことから、ラルゴによるイタズラの多くはチョコに唆されて気が弱い故に逆らえずやっていた事だったのではないかと僕は思っています。
彼女はとても穏やかで気品があり、頭もよかったため、躾け教室の推薦で犬の雑誌の躾けコラムのモデル犬として掲載されたことが2度ほどありました。
そんな彼女でも、僕と母が肝を冷やす出来事が一度だけありました。ある日躾け教室へ通う道中、僕と母とラルゴは車を降りて、ラルゴにリードをつけて教室へ向かっていました。その時横断歩道の先に見えた教室へ一刻も早く到着したかったラルゴは、少し緩かった首輪をすり抜けて車の行き交う横断歩道のへ飛び出して行きました。僕と母は彼女の名前を必死に叫びました。おかげで彼女は彼女を轢きそうになった車の運転手にも気付いてもらえて、間一髪で事故を免れました。ラルゴはその時からより大人しく慎重な犬になったと僕は感じています。
その後彼女は大病することもなく、スクスクと、穏やかに育っていきました。僕が高校に上がった頃、夏以外の時期は帰宅してから彼女と2人で1時間ほど散歩をしていた時期がありました。遠出はしないものの、毎日彼女と色々な道を歩き冒険を楽しみました。
また夜は僕の部屋でラルゴを抱っこしてよく一緒に寝ていました。朝になるとラルゴは僕のことを起こしてくれました。
そのほかにも僕は時間があればチョコとラルゴとリビングで映画を見たり昼寝をしたりしていました。僕にとって彼女達は実の家族以上に一緒にいるのが当たり前の家族でした。
2019年7月10日、急性膵炎でチョコが亡くなった時、チョコのおかげで賑やかだった家族にぽっかり穴が空いたように、ラルゴの心にもぽっかりと穴が空いたように感じました。チョコが亡くなり、葬儀までの間自宅に安置されたチョコの亡骸にラルゴは何度も近づき、話しかけるように寄り添っていました。チョコの葬儀で家を出て、チョコのお骨を持つ帰って来た時、ラルゴにもそれがどういう意味なのか分かっていたのでしょう、家に入るとラルゴは甲高い声で遠吠えをあげるようにずっと吠えていました。姉貴分が突然動かなくなり、そしていなくなり、家族や家の雰囲気が少し静かになることをラルゴはきちんと感じ取っていたのだと思います。ある日突然動かなくなり、周りの家族が悲しみに沈むことがある、それがラルゴにとっての「死」を実感した出来事だったのだと思います。
ラルゴはチョコがいなくなってから一気に老け込んでしまい、一日中寝ている日が増えていきました。横になっていても自分の上に乗っかって寝床にしてくるチョコがいなくなったラルゴにとって、チョコのいない毎日は退屈だったのでしょう。
僕が一人暮らしを始めて実家を出てからラルゴと顔を合わせる頻度は極端に減りました。それは僕が実家の人々を避けて、用事がない限り実家へ赴かなかったことがその理由でした。それでもラルゴに会えないことは僕にとってとても寂しい毎日でした。僕の一人暮らしの部屋にもラルゴとチョコの写真を飾り、家族と通話する機会があれば毎度ラルゴの様子を聞いていました。一人暮らしを始めてたったひとつ実家に対して思い残していたことがラルゴのことでした。実家に帰る度にますます老け込んでいくラルゴが心配で、僕自身「今年いっぱいが限界かな」と覚悟していたところはありました。
8月3日の夜、母から電話がありました。ラルゴがもう長くないかもしれない、と。僕はその夜恋人と会う約束をしていました。次の日に顔を出すと一度は母に伝えました。しかしこの話を恋人にしたら、「実家の人達に対して良い思いを抱いてないかもしれないけれど、私が着いて行くから、きちんとラルゴに息があるうちに会いに行ってあげよう」と提案されました。恋人は僕がラルゴの息があるうちにラルゴと話せなかった時後悔しないかが心配だったそうです。僕は一人暮らしを始めた時からラルゴを看取ることができないことは覚悟していました。しかし恋人の言うことは最もでした。せめてラルゴを愛した者として、看取ることは出来なくとも、きちんと最後に言葉を交わすことがやはり必要だと思いました。僕と恋人は夜僕の実家へ向かい、ラルゴに寄り添いながら実家に一泊しました。
その時僕はラルゴに「ラルはもう十分生きたのだから、今苦しかったら踏ん張らず、もうチョコの元へ行っても大丈夫だよ。チョコと一緒に世界中を旅して、時々僕達の元へ夢の中や何かしらの形で帰っておいで」と伝えました。しかし彼女はこう言いました。「私はもう少しだけこの現世に留まりたい。私がいなくなったらみんな悲しくなっちゃう。だから私が耐えられる限りみんなの側にいたい」と。そのメッセージを感じた時彼女は本当に涙を流していました。彼女は時々吠え、「もう少し生きたい!」と強く訴えていました。その瞬間僕の中で言葉にならない色々な想いが込み上げてきました。
値引きされて売られていた子犬が、ひとつの家族に迎え入れられて、姉貴分のミニチュアダックスと共に過ごし、最期まで家族全員に愛されていた彼女は、あの日2006年の春にあの日曜大工センターの奥のペットショップで僕達と出会えて本当に幸せな人生だっただろう、と。
僕と別れの挨拶をしてから半日後、8月5日午前2時頃にラルゴは旅立ちました。
僕の今の想いは悲しみや寂しさだけでは無く、それ以上に彼女が不自由な肉体と生への執着故の苦痛から解放されて、チョコの元へ行き、新たな世界で新たな一歩を踏み出したことへの祝福の気持ちが強くあります。
幸せであったであろうラルゴの幸せが、この先彼女の歩み出した新たな世界でも続くことを、僕は祈っています。

私があなたと知り合えたことを
私があなたを愛してたことを
死ぬまで死ぬまで誇りにしたいから

ラルゴ、僕達と一緒にいてくれてありがとう。
これからもずっと一緒だよ。

2021年8月6日の快晴の午後
佐橋龍

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