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初めての韓国・ソウル旅行で、DMZツアーに行ってみた。③



0. ②の振り返り

 ②において、私は、DMZツアー当日の朝のことや無事にツアーバスに乗ったこと、DMZツアーの入り口である臨津閣平和公園に到着したことを記した。

 ③では、臨津閣平和公園で休憩時間に私がしたことや日本語ガイドであるKさんによる臨津閣平和公園内のモニュメントの紹介について記していく。

1. 気ままな休憩時間

 休憩時間に入ると、私の身と心は大はしゃぎした。「休憩時間は40分!わりと時間がある!写真撮る!朝ごはん食べる!」とワクワクした気持ちになりながら、私は、韓半島生態平和総合観光センターの近くから離れて、スマホのカメラ機能を起動した。「私はこのツアーに参加したことをnoteとかに書いて発信したいと思うかもしれない。その時に良いものを書けるように、写真も撮っておこう。」と思ったからだ。
 心をはやらせながら、私は自分の周囲の様子をスマホのカメラで撮影した。

臨津閣平和公園内の遊園地
『平和ランド』
臨津閣平和公園の文字モニュメント。
この日はマラソン大会が開催されるためか、
マラソンランナーの格好をした人がたくさんいた。
韓半島生態平和総合観光センターの近くにあった
ゴンドラ(ケーブルカー)のチケット売り場の案内

 写真を撮った後、私は韓半島生態平和総合観光センターの中へ入った。DMZへ入場するためのチケット売り場には多くの人たちが並んでいた。

DMZへ入場するためのチケット売り場
(韓半島生態平和観光センター内にて)

チケット売り場の近くには、パンフレット置き場があった。私は、「noteとかでこのツアーに参加したことを書く時に参考になりそう!」と思い、日本語版のパンフレットを何種類かとった。

パンフレット類
(韓半島生態平和観光センター内にて)

 パンフレットをとった後、私は「そろそろ朝ごはんを食べたいなぁ。」と思った。私は、韓半島生態平和観光センターから出て、売店を見にいった。

売店の写真①
売店の写真②
売店の写真③
売店の写真④

色々な売店を見て、私は「トッポギを食べようかなぁ。メニューにあったし。」と思い、トッポギがメニューにある売店に向かった。しかし、トッポギは販売されていなかった。少し残念な気持ちになりながら、私は代わりにチーズハットグを注文した。

注文したチーズハットグ

チーズハットグの味は美味しかった。
 チーズハットグを食べているうちに、腕時計を見たら、9時40分近くになっていた。私は、お手洗い等を済ませ、一旦解散した場所である韓半島生態平和観光センターの近くに戻った。

2.イムジン河を臨む

  韓半島生態平和観光センターの近くに戻ると、Kさんと中国語ガイド、ツアーの参加者たちがいた。Kさんは、参加者たちが全員揃っているのを確認した後、「無事11時40分からの入場チケットを買うことができました。でも、もう今の時点でチケットは売り切れです。」と言った。
すると、後ろから数人の日本人の参加者たちの「えーっ。」という驚きの声が聞こえた。私も「この時点でチケットが売り切れるなんて……。私を含めてここに来る観光客たちは、好奇心が旺盛なのか勉強熱心なのか、よくわからないな。」と唖然とした気持ちになった。このような気持ちを抱きつつ、私は参加者とともにKさんの案内で韓半島生態平和観光センターの中へ入っていった。
 韓半島生態平和観光センターの中へ入って、2階に上がると、ある自動ドアの前でKさんの足が止まった。Kさんは朝鮮半島の地図を出した。「これは子ども用の地図です」と朗らかに言った後、朝鮮半島の地図を私たち参加者に見せながら次のように説明した。

朝鮮半島の地図を見せながら説明するKさん
  • 韓国半島(朝鮮半島)は、日本の国土の2/3であること

  • DMZは、1953年7月27日の休戦協定により、休戦線(北緯38度線)から北方と南方で合わせて4kmの地域であること

  • 北と南でお互いに監視し合っているため、DMZの中には武器を持っていたり軍事施設を建てたりすることは禁止になっていること

  • 南方境界線から6km南には「民間人統制区域」があること

  • 兵士や見張り小屋は撮影禁止であること

 このように説明した後、Kさんは私たち参加者を自動ドアの外へと案内した。自動ドアの外にはゴンドラや川が見えた。

自動ドアの外へ出ると見えた風景。
ゴンドラや川が見える。

この風景を見せながら、Kさんは朝鮮戦争が始まったキッカケを詳しく説明した。
(ついでに、朝鮮戦争は韓国では「韓国戦争」、もしくは「6・25戦争」と呼ばれている。朝鮮戦争が「6・25戦争」と呼ばれているのは、1950年6月25日に戦争が勃発したことに因むと私は考える。)
 朝鮮戦争の説明を熱心に聞いていると、Kさんが、川とゴンドラの方を手で示しながら「あの川は、看板にも書かれているように、イムジン河です。75歳以上の日本人の方には馴染みが深く、『パッチギ!』で有名になりましたね。イムジン河は、北朝鮮から流れて、ソウルの漢江と合流して西に流れます。イムジン河はウナギの名産です。日本で歌われた『イムジン河 水清く~』という『イムジン河』、この歌は反戦歌になりましたね。歌に出てくるイムジン河もこの川です。この歌は韓国でも放送禁止になりました。」と説明した。『パッチギ!』をタイトル名だけ知っていて、イムジン河の存在をこの時に初めて知った私は、「韓国と北朝鮮の間に川が流れているなんて知らなかった。『イムジン河』という歌は何故韓国で放送禁止になったのだろう?」と驚きと不思議な気持ちを抱きながらイムジン河の写真を撮影した。

イムジン河①
イムジン河②

 写真を撮って数分後、私たち参加者はKさんの案内で臨津閣平和公園に移動した。

3.臨津閣平和公園のモニュメント

 臨津閣平和公園に着くと、Kさんは、色々なモニュメントを紹介した。ここでは、Kさんが紹介したモニュメントについて記していく。
(その際、韓半島生態平和総合観光センターでもらったパンフレット類も参考文献にする。)

『平和の鐘』

『平和の鐘』①
『平和の鐘』②

 『平和の鐘』は2000年1月1日に設立された。鐘は、重さが21トンで、朝鮮戦争(韓国戦争、もしくは6・25戦争)の時に使用された武器を溶かして作られた。『平和の鐘』には、人類平和と民族統一の願いがこめられていて、今では「除夜の鐘」として使われている。この日のように臨津閣平和公園でマラソン大会がある日でも鐘は鳴らされる。(ついでに、韓国でも除夜の鐘を鳴らす回数は日本と同様108回である。)


『望拝壇(マンベダン)』

『望拝壇(マンベダン)』①
『望拝壇(マンベダン)』②

 『望拝壇(マンベダン)』は、北朝鮮に故郷がある人たち(「失郷民」)が、旧正月(ソルラル)や秋夕(チュソク)などの家族に会いたいと思う時に訪れて、自分たちの先祖を追慕する場所である。

線路跡

線路跡①
線路跡②

 この線路は、韓国の第15代大統領である金大中の在任時に復元されたものである。金大中政権では、北朝鮮に対して太陽政策がとられ、145の韓国企業が、開城(「ケソン」と読む。北緯38度線に最も近い北朝鮮の南部の都市。)に向かい、55,000人の北朝鮮の国民たちを雇った。開城(ケソン)で雇われた北朝鮮の国民たちが生産した製品を韓国へ持っていくために鉄道と線路が復元された。
 線路の外側にあった臨津閣の標識には、ソウルが臨津閣から53km先にあること、開城(ケソン)が臨津閣から22km先にあることが示されており、この場所が韓国の首都よりも北朝鮮の都市に近いことが理解できる。

線路の外側にあった臨津閣の標識


京義線長湍駅の蒸気機関車

京義線長湍駅の蒸気機関車

 1953年まで利用されていた蒸気機関車。
(Kさんによると、1953年7月27日に休戦協定が結ばれると、南北間を鉄道で往来することも手紙を送り合うこともできなくなったとのこと。)
この蒸気機関車が、このような外観をしているのは、朝鮮戦争(「韓国戦争」、「6・25戦争」)中に、北朝鮮軍に爆撃され、北朝鮮軍に蒸気機関車を奪われるくらいなら自分達で爆破した方が良いと考えた韓国軍が爆破・脱線させてから半世紀以上もDMZ(非武装地帯)に放置されていたからである。
 蒸気機関車の車輪の一部に「住友」という文字が刻まれており、この蒸気機関車が日本製だったことが伺える。

京義線長湍駅の蒸気機関車の車輪。
「住友」という文字が刻まれている。

『自由の橋』

『自由の橋』
『自由の橋』②

 この橋は、1953年7月27日の朝鮮戦争(「韓国戦争」、もしくは「6・25戦争」)の休戦協定の締結後に、北朝鮮の捕虜であった12, 773人もの韓国兵士たちを交換するために仮説された。『自由の橋』という名前は、捕虜だった韓国兵士たちがこの橋を渡っている際に「自由万歳」を叫んでいたことに由来している。

『マンヒャンの歌牌』

『マンヒャンの歌牌』
『マンヒャンの歌牌』の説明
『マンヒャンの歌牌』②

 この歌牌は、休戦協定から30年後の1983年に、韓国のテレビやラジオで「離散家族再開キャンペーン」が行われていた際に建てられたものである。「離散家族再開キャンペーン」は、当初3日間の予定だったが、大反響により138日間も行われた。歌牌のすぐそばには『失われた30年』という演歌(韓国では「トロット」と呼ばれている。)が流れていた。


4. 特に印象的だったモニュメント

 臨津閣平和公園にある様々なモニュメントは、私にはどれも印象的なものばかりだった。しかし、その中でも特に印象的なモニュメントが2つあった。ここでは、その2つのモニュメン卜を紹介したい。

戦場の石の展示

戦場の石の展示

 臨津閣平和公園には、全86個の石の展示があった。この石たちは、世界史上で戦場となった場所から拾い集められたものであり、その中には、太平洋戦争時の広島や長崎、沖縄、13世紀の元寇で拾われたものもあった。
 それぞれの石の下には1から順番に番号が刻まれていて、展示の下の部分には番号をふられた石が拾われた場所が記されている。

9 広島の石
9 広島の石の説明
59 長崎の石
59 長崎の石の説明


77 沖縄の石
77 沖縄の石の説明
23 元寇の石
23 元寇の石の説明

 DMZツアーに参加して、私は「広島」、「長崎」、「沖縄」、「元寇」という文字を目にするとは思わなかった。そのため、私は驚いた。しかし、それと同時に、「かつて日本に植民地支配を受けていたのに、『広島』や『長崎』、『沖縄』のことを気にかけてくれてありがとう。しかも、『元寇』とかさらに昔のことまで気にかけてくれてありがとう。」という嬉しい気持ちと感謝の気持ちがささやかに湧きあがった。


『平和の少女像』

『平和の少女像』

 2019年に設立された『平和の少女像』。
写真の2つの少女像のモデルとなった少女たちは、慰安婦だった。少女像が2つあるのは、南北統一が実現された時に少女像の1つを北朝鮮に送るためで、少女像の右隣に空席の椅子か置かれているのは、戦争で犠牲になった慰安婦の少女たちに思いを馳せてほしいという願いが込められているためである。
 私は、慰安婦像をDMZで初めて見た。
Kさんが『平和の少女像』を私たち参加者に紹介する際に、「『ここに来てまで慰安婦像?』と思われるかもしれませんが、」と前置きして紹介していたが、私は慰安婦問題に関しては、「『反日』云々関係なく、市井の女性たちが国家間の戦争で自分たちの尊厳を踏みにじられたことが問題。」、「国家間の問題だけではなく、民衆のレベルでの問題である。彼女たちの犠牲を風化させないため、『平和の少女像』はあって然るべき。」、「国家間の問題であっても、日本の植民地支配では被害者側だった韓国は、ベトナム戦争の時にベトナム人たちにひどいことをした加害者側だった。これはお互い様だ。」と考えているため、特に気にしなかった。
 ただ、加害者側だった国の人間であると同時に女性として、私は慰安婦問題については更に詳しく学んでいこうと思った。

5. この続きは④をお楽しみに。

 臨津閣平和公園のモニュメントを一通り見て回った後、Kさんが腕時計を見て、「今、10時40分ですね。」と言った。それからKさんは、「(DMZへの)入場時間までまだ時間があります。その間は自由時間にしましょう。有料ですがゴンドラに乗ってもいいですし、『ダンキンドーナツ』という韓国にしかないドーナツでお茶してもいいですよ。ゴンドラに乗りたい方はいらっしゃいますか?」と手をあげるジャスチャーをしながら私たち参加者に訊いた。臨津閣平和公園で様々なモニュメントを見て、すっかり知的好奇心に駆られていた私は、「ゴンドラに乗ったら更に何を知ることができるのだろう?せっかくだからゴンドラにも乗ろう。」と思い、手をあげた。Kさんは、ゴンドラに乗ることを希望する参加者たちの数を数えた後、私たちをゴンドラ乗り場に案内した。 
 こうして私はゴンドラに乗ることになった。ゴンドラに乗ったことについては④に記していく。














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