メンクリ日記 20230621



 先週の予約だったのですが打ち合わせ用の資料作成が間に合わず普通にすっぽかしてしまいました。
 ちゃんと予約しなおして、行けました。


 今回は問診票と違う話が結構あったので、ざっくりトピックをまとめるかんじで行きます。






ホットトピック



・他人との相互理解むずスンギ


 自分がなんとか意図や意味を伝えたいことがあっても、自分でできる最大を尽くしても不可能……みたいなことっていっぱいある〜(;o;)の話。
 今まで通ってきた常識が違う人とのやりとりって難しいな〜、とか。悪気なく悪い印象を与えたり、受け取ったりすることがあるなと。


・他人の自殺を止める権利ってなくない?


 これは問診票に書いたやつ。
「私は自殺をしないことにしたが、他人の自殺を止める権利はないなと思った。どういう言葉が相手のためになるのか。」







診察



・「自己理解もだけど、他者理解も大事」


 色んな人がいるし。相手との環境の違いとかで分かりあわない部分はある。これは実家の人とのもちゃもちゃでなんとなく自覚できてはいるのですが、やはりまだ難しい。
 食べ物とか趣味はお好きにおし! なのですが、誰かに対して「どうしてあなたは彼のことわかってあげないのよ!?」みたいなことが結構気になってしまい…
 自分が今頑張ってやっている訓練だからこそ敏感になってるのも大きいです。

 そういうときはなるべく登場人物全員の気持ちというか、そうなった経緯を知る/想像するようにしています。
 例えば友人が会社で上司とモメてるときってどうしても友人の肩を持ちたくなってしまうので、「そんなん許せねえよなあ!」て思いつつ「相手にも何か事情があんじゃねえか」とかの議論をしてます。
 同様に私もムキー!てときは知人に忌憚なき意見を聞くようにしてる。


 感情に支配されすぎって先生に言われたのの反省をちゃんと日常に取り入れてます。↓


「自分から見た完璧な世界も他人から見たら穴だらけってことはよくあるからね」て言われておぼっちゃまくんのやつだ! となった。(前半分しか布がないスーツを想像して)

 こういうのって頭ではわかってても、いざそういう場面にはちあった時忘れがちだなと思います。
 いつでも取り出せるようにしておきたいところ。


 相互理解には限界があるんだけど、努力することに意義はあると思うので、自分ができる範囲で引き続きやっていけたらなあと思います。



・自殺止める権利←あるんじゃない?


「例えばタイタニック号が沈没しそうでギャー!てなっているときに、私はもうダメンゴ死ぬンゴほなまた…という人がいたら助けたくなるだろう。」
「あとは職場で、その人が死んだら仕事が回らなくなるという場合もきっと助けるべきだと思うはず。」

 て言われて、「仕事が回らなくなるからって引き止めるのはわかるけど死ぬンゴを止めていいのかわからないですよ…「死んでほしくないから」でしかなくないですか?」て聞いたら

「そんなもんじゃない?それでいいんだと思うよ」て言われた。


 で、次のトピックの↓


・経済的損益と心理的損益


 どちらも同じくらい優先されうるものであるから。
 例えば不倫はよくないけど、コミュニティによってはなんとなく許されてしまったりする場合もある。それは心とか感情がそれだけ勘定に入れられるものだから。(自然な押韻)

 とはいえ「Aさんの感情をBさんの勘定に入れてもらえるか」って、「Bにおける「Aの言葉」の価値がどれだけあるかに依存する」=「A本人」or「Aの言葉の説得力」のどちらかが高い状態 だなと。
 知らん人に何言われても はあ… というかんじだし。


 私としても無責任に「お前には生きていてほしいよ」って言いたい場面はたくさんあるのですが、生きることは膨大な面倒さを伴うことだし、その全てを背負えるわけではないので難しいですね。

 先生が「複雑な問題だからどうしても複雑な議論をすることになるけど」て話されていた。メンクリの先生にこんな、生命体の永遠の命題みたいなこと聞くのめちゃくちゃめんどくさい患者だなと反省しました。



・生きる理由ってなくないですか←あるんじゃない?


 私は1年半ほどの通院を経て最近ついに「生きるか」になってきまして。

 終末論を叩き込まれたのもあり割と自我が生えたときにはもう死にたい・生きていてもしゃーないと思っていて(多分その片鱗は今までのメンクリ日記でも見えるかと思うのですが)最近やっとそれが少しずつ小さくなってきました。
 四半世紀より生きた歴史の中でこんな風に心底「生きたいかも」と思えたのは初めてです。だからこそまだ疑心暗鬼ですが。

 なんでかって言うとシンプルに生きるの楽しくなってきたからなのですが(漫画制作とか、どこかに出かけるとか)それはあくまでも私の楽しみでしかなく、同じ体験をできる他人は存在しません。

 自分がこう思えた気持ちや経緯をそのまま相手にスライドできたらいいのに、と思うことがしばしばあります。


 ほんで先生の「生きることに価値がなければ戦争なんて起こってない」という言葉がすごいよかった。
 生きる意味を言葉で論理的に説明できないにしても、そういう行動が現に起こっていることがひとつの解答ではあるなと思った。



・「エイドーさんよくなってきたね」

 ↑爆照した。
 物語を作れる人は回復がはやい気がする、と言われました。





所感


・生きたい

 もっと嬉しくなりたいと改めて思いました。
 今年に入ってからメンクリとおじめい原稿、打ち合わせの反復で「自分が嫌なこと、つらいこと、避けたいことの理由」「何が好きで、どうすれば喜べるのか」を時間をかけて何度も何度も議論することができまして。
 それに伴って自分の中の喜怒哀楽とか、感情?機微?がくっきりしてきて、今まで経験のなかったことにも「これやったらどうなるだろうな。フフフ…」みたいな気持ちが湧いてくるようになりました。

 期待しすぎない・期待値を下回っても取り返せるみたいな精神の安定感も大いに買っている気がします。いま本当に人生で一番精神が安定している。

 でも自分の喜びを無遠慮に押し付けることはやはり避けたいので、うまい落とし所をみつけていけたらいいなあと思います。
 生きるべき理由って別にないけど、生きててもいいなって思える状態になることはできるのだなと思えてきたので。



・良くなってきたね←めっちゃ嬉しいんだが。


 これほんまにうれしい。自分の変化を「身近で」「見守る立場で」観測してくれる他人って意外といないので。
 あと先生基本的にそっけないので、こういうちょっとした褒めがめっちゃ効く。努力を認めてもらえる嬉しさ。

 いつか自分と同じような子に出会ったときに見守ることができるように、これからも「良く」なっていきてぇと思いました。

 


 



 おじめいは来月の頭には更新していただけるように頑張って作業してます…牛歩更新、すみません…
 打ち合わせしてる他のやつもお披露目できるように引き続きやっていきます。あんたたちも「観測者」となってくださいね。








雑記 死ななくともええやん

2023_06_22 10:00追記



 自分なりに「死ななくともええやん」の理由について考え、現段階でのスタンスをまとめました。
 知人との会話で薦められて読んだ論文に基づいた俺なりのアンチテーゼです。なお明日には全く異なっている可能性があるので、あくまでも今日の私の考えということでひとつよろしくお願いします。


 おことわりとしては「死ななくともよい理由」であり、「死ぬべきではない理由」を提示するものではないところです。
 ほんとはもっと冒頭に色々書いていたのですが間違って消してしまいました。許せん。






・死ななくともええやん① 人生ってたのしい


 何より、人生は楽しいものである。というか、楽しめるようなつくりになっている。

 人間には快・不快の感覚がある。外部刺激によっていずれかに反応するならば、快を求めたい。
 ではどうすれば快が手に入るのか? それを考えることができるのが人間である。ただ外部刺激に原始的な快・不快のみを示す以外にも、できることがたくさんある。思考し、試行することができるし、言語という複雑な伝達手段を用いて他の個体とコミュニケーションができる。これはヒトならではの喜びではないか。

 何より、「楽しい」という言葉があるのだから、少なくとも「楽しい」は存在するはずだ。

 死んだら「楽しい」ができなくなる。「楽しい」を探すことも。
 探すことを「楽しい」にできれば、死ぬまで楽しめる。





・死ななくともええやん② 死んだら終わり


 死は練習ができない。一回きりである。運命としての死が確実に存在する以上、単純にもったいない。
 知的生命体としての喜びを放棄するのは得策とは言い難い。





・死ななくともええやん③ 世界には果てがない


 この世に存在するすべての知は、各分野ごとの知識の範囲の円が無数に重なり合った巨大なベン図だと思う。

 その円は人間が誕生してから今までずっと拡がり続けてきた。世界は亀の上ではなく宇宙にあるし、動いているのは天ではなく地だし、もしかするとそもそも世界はひもでできているかもしれない。
 超弦理論の可能性が示唆されたのは1960年。ソクラテスの刑死はおよそ紀元前400年。実に2000年以上もの間気付かれることのなかった事実がいま存在している。人間が思考をやめない限りこれからも様々な発見があるだろう。

 この文章を入力しているMacbook airは2020年製である。知識や発明が頭打ちになることは、少なくとも我々の寿命までの間には考えにくい。

 まだ使えるものを捨てるのはもったいない。楽しみ得なのだから。





・死ななくともええやん④ 理由などいらない


 今まで述べてきた全ての理由は全く意味がない。「こんなことを考えなくても生きている人」がこの世には山ほどいる。
 生きていることは「ただ在ること」でしかないと思う。そこに理由や使命などがあるとすれば、人間の勝手な免罪符でしかない。

 身近な誰かが死んだら私は悲しいと思うだろう。でもこの悲しみは私だけのものでしかない。70億分の1の悲しみに過ぎない。
 地球46億年の歴史の、70億分の1の、ほんの数十年間の出来事に、神がいちいち理由を持たせると思えない。
 神が人間だけ特別扱いをしているとも思えない。
 もしそうだとしたら神のことちょっと嫌いになってしまう。ひいきされる側はいつだって気分がよくないから。

 楽しいことがあるだけで生きてよい。
 これからも見たいもの、毎日会いたい人、気持ちいい風とかあったかい日光とか、そういう嬉しさを明日も感じたいだけでよい気がする。

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