メンクリ日記 20230502


 朝までは嫌ンゴーーーーーとなっていたけど、親戚からの電話で少し盛り返したおかげでちゃんと行けました。
 あと見づらいので今回からちゃんと見出し作りました。



 「食べるの嫌ンゴ」の正体が判明————————多分






問診票



・食事への忌避感が強まっている。もともとそんなに好きではなくていつも夜一食しか食べないが、それもお腹が空いて気が散るのをごまかすためでしかなく、「やりたくもないことを無理やりやらされる」感がかなり嫌。

・食事が嫌な理由は2つあって、「①自分に生きる価値ないのに、食べる=生きることをやるのが嫌」「②貧乏だから食べ物にお金をかけるのが嫌」。食べなければお金を使わなくて済むのにって思ってしまう。


補足

・中学生とかの本当に若いころからなんとなく食べることに忌避感はあり、自分で暮らしの責任もてるようになってからは任意のタイミングで食べれる量だけを食べる生活を送っている。
・最近1食ですら完食できず、一日0.6食みたいな日が増えている。
・よくないとはわかりつつも拒否感が強すぎて、その矛盾でアーーーー!!!になってる。






診察


・「食べることへのトラウマという強い感情に支配されすぎちゃってる」

→生きることへの反発に気持ちが持ってかれすぎ。
 食べることにトラウマがあり、まだ自分の中で言語化できていないからわけもわからないまま「嫌だから」という理由だけでハンガーストライキをやっちゃっている。

  



・「長期的に考えたら食べるべき、と思う訓練をする」


→生きるためには食べなきゃいけないことを自覚する。
 そもそも長期的に考えるという行為は理性的である。動物なんか基本みんなそんなことしない。訓練で培われるもの。

 「どうしても明日死ぬかもしれないのに…て思っちゃうんですよね」て言ったら「死ぬかもしれないけど、高確率で死なないんだから、明日のことはちゃんと考えたほうがいい」て正論パンチされて笑顔が出ました。



・「とりあえずやる」


→治療には「とりあえずやるしかない」みたいなちょっと厳しい部分も必要。
 感情に負けず、関係ないことを勝手に結びつけないで、「やるべきこと」を「やる」。



反省



・明日死ぬかもしれない思考をやめる


 やりたくないことを「そもそも明日死ぬかもしれないのに」と言うことで「何やっても無駄なんだからやんなくてもいいでしょうが」と正当化するやつ、気軽な思考停止ボタンになっちゃっていて本当によくない。
 明日死ぬならそもそもメンクリ通う必要ないし。

 「明日以降の私が楽になるために」という理性の自分と「何やっても無駄」という感情の自分がいて、理性の自分はここ2〜3年でやっと二足歩行し始めたのでまだ全然イニシアチブを握れていないんですよね。
 そのせいでどうせ何やっても無駄よ……が一回発動しちゃうともう全部ダメになってしまう。

 なので、診察での「とりあえずやる」理論に則りつつ、以前から実践している「とりあえず死なないをやる」の目標に加えて「多分明日は来るからとりあえずなんかやる」を追加しようと思います。

 とりあえず死なない目標はだいぶ定着してきており、し、し、死ーーーーー!!!!!!となったときでも「とりあえず寝よう」とか「なんかゲームでもしてみよう」みたいにひとまず回避→無事明日の朝を迎えることができてきたので、とりあえずやる目標もきっとできるはず。
 ……て思えるようになったのは理性の訓練のおかげだな。て、いま前向きな気づきを得ました。

 
 ちゃんと努力の結果が出てきているから、諦めずに頑張りたいです。



・義務をルーティーン化する 達成したら褒める


 「食べること自体を楽しめればいいんですが」て言ったら「それは目標が高すぎ」て言われたので、食べたらご褒美のシステムを構築してみようかなと思います。
 そもそも、食べないと死ぬのに食べることを努力目標にしてるのが間違いだなと。義務ですよね普通に。


 診察の中で「一日のうち仕事は何時間って決めて、何があっても頑張ってこなすことにするべき」みたいな風にも言われたので(生活リズムがぐちゃぐちゃなのを怒られる流れで)、掃除とか他の面倒なことと合わせて一日のやるべき義務リストとし、チェックが埋まったらご褒美を用意しようかなって。

 でもご褒美が何も思いつかないです。ご褒美お待ちしてます。(?)


 「朝X時に起きる」「歯を磨いて顔を洗う」「XX時からXX時まで作業」みたいなの、いい加減ちゃんとやります。
 体調の波を思うと元気なときに一気にやりたい(休みたいときは休みたい)て思いがちで、そうなると長期目標立てにくいので、とりあえずやってみてダメそうなら「明日への影響までを調整したうえで」休む、みたいなかんじにしてみます。


 理性の自分が働いてるうちに「とりあえずやる」の目処をつけられるように頑張ります。取り返しがつかなくなるほうがいい気がするので。




所感



・「理性」と「感情」という「2人」


 今日の診察で、自分の中に「理性」「感情」の二人がいて、全然別の存在なんだなという認識が強まった。

 理性の自分が「感情の自分さんがこういうこと言ってる(;o;)」て先生にチクるのがメンクリなんだなって思ったというか……「頭ではわかってるのにできない」のは「理性の自分はわかってるけど感情の自分が嫌がってる」ということなのかなって。
 言い換えると「人間の自分」と「動物の自分」だろうか。「いち個人として人間社会に属する上で、(長期的に見て)やったほうが益になること」を理性で認識しつつ、「でもこの体験で自分に害が発生したらどうしよう」って感情で不安がってしまう。

 不安になったときは理性の自分さんにバトンタッチできるようにしたい。




・食事へのトラウマの容疑者


 診察後になんで嫌なのかな〜って漠然と考えてて一個思ったのが、「お腹がすくこと」が一番嫌で、それは過去の体験から来ている気がすること。
 詳細は省くけど、空腹を叱責された経験がある。

 また、同じ経験から今食べたい料理を他人に伝えるのが苦手。
 これは小学生の頃から自覚があって、「なぜ伝えなかったのか」でまた叱られた経験がある。しかしなんとおやつは大丈夫。ケーキとか食べたいよねー♪は言える。


 「お腹が空く自分が発生すること」に、うんざりして泣きたくなるのかもしれない。
  他人に誘われて一緒に何かを食べることは以前よりできるようになってきていて、でもお腹が空いていることを伝えるのはめちゃくちゃ嫌なのが証拠かもしれん。
 



・俺の中の「生存が恥ずかしい」というローマ


 「お腹を満たす行為が苦手だから、食事が嫌」というところまでは以前からわかっていて、だからこそちょっと良いものを食べたり(=体験そのものに付加価値を与える)何も考えずにただ胃に流し込んだりでなあなあでやってきていた。
 とはいえ、そもそもの「お腹を満たすのが嫌な理由」=「生きてることが恥ずかしい理由」を分解して考えたことはなかった。

 ただ「生きることは恥ずかしいことである」と学習させられた記憶はないし、もしかすると「理性/感情で別々に存在する自分」と同じで、色んな理由が組み合わさって「生存への羞恥」が構成されているのではないか。


 改めて振り返ってみると、「仕事もせず眠る」「悲しくて泣く」「楽しそうな遊びの誘いを受ける」「お腹が空いたから食事をとる」を嫌がる理由は、それぞれ別に存在する。

 それが全部複合合体した結果の「=じゃあもう生きること自体が恥ずかしいことじゃないか」ではないか?
 そんでもってそれが思考放棄にちょうどいい理由であったがために、かつその経緯が普通に嫌な思い出であるために、全部なかったことになってたのではないか。

 そういえば先生に生きるの恥ずかしンゴの話したとき「恥ずかしいというか……うまく言い換えできてない別の感情なんじゃないの」みたいなこと言われたけど肝心の言葉を忘れました。

 次回へ続く—————————



・なんかいける気がしてきた


 今後同様に正体不明の漠然とした拒否感が発生した場合、ちゃんと立ち止まって理由をあぶり出せるようにしたい。

 しんどいことを理由に何かの誘いを断るよりも、なぜしんどいのかという理由をちゃんと自分の中で答えを出す。
 それが相手に相談できそうなことだったら経緯を伝えつつ意見を仰ぐ。そのほうが絶対にいい。誘ってもらえることはありがたいことで、無碍にするのはもったいないので。


 できるようになったことは確実に増えているので、「あれができたからこれもできるはず」というかんじでやっていきたい。


 まずはちゃんと食べます。
 あとちゃんと朝起きて夜寝ます。そのために時間決めて仕事します。




 絶対に負けねえ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!




なんとも言えぬ複雑な表情の典明でお別れです。

17話のネーム(担当さんにプロット褒められたよ〜ん お楽しみに)

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