「どうしたら感謝できるのか」ではなくて「感謝する」
広島で質問を磨く会を主催しています
最近、朝活に参加するようになったのですが、それが大層お気に入りになっています
無理なく参加しているのですが、朝から元気になり、翌朝が楽しみなまま寝ています
オンラインでもできないかということを問いかけられ、オンラインでもやってみたいなと考えています
オンラインでやるには時間をどうにかしたいので、そのあたり試行錯誤中
今日も、実際の自分への質問がこんな感じですと書いていってみよう!おー!ということで書いてみます
感謝できないことへの苦しさ
さて、「感謝をする」ことが大切だということはよく耳にするし、「そんなことは知っとるわい」と思うし、「それがすんなりできないから居心地が悪いんだよ」というのが実際のところです。少なくとも私はそういう思いによく駆られます
感謝をしないでもいい正当性
祝福をしないでもいい正当性
うまくやっていけない相手の居場所を自分の中から消してもいい正当性
そんなものをよく探しています「うまくやっていかないといけない」という考えに縛られすぎているのではないかとかも思います
「うまくやっていくってなに?」とか「もういいじゃない」とか
ただ、そういうときの自分自身が抱えているのは絶望感であり、「ありがとう」と思えないことに傷んでいるように思って、どこか必ず感謝や祝福に行き着けると確信していることに気がついたりします
でも感謝できない、「どうしたら感謝できるのか」と思ったりします
そうできない私が悪いんじゃなくて相手にだって問題がいくつもあるとか
今日、階段を昇りながら、ああこれは「どうしたら」というものじゃないなと改めて感じて、ここにいたら苦しいなと思いました
感謝ができる条件があり、祝福するための条件がある
その価値観で過ごすのが自分に合致しないから苦しいのだろうなと
大前提として無条件に感謝して、祝福をしていて、居場所を用意できている在り方が備わっていて、それは何かがあったりなかったりするからではないように思います
「どうしたら感謝できるんだろう」と何度も自分に問いかけていたものがあったのですが、これは「どうしたらできるのかではなく、する そもそもしている部分を受け入れよう」ということでとけていきました
そうすると不思議に「感謝しないといけない」と窮屈さすら感じていたものがなくなったように思います
質問を磨く会では自分に対しての問いかけを共有しながらそれを磨いていきます
また日程等お知らせいたしますね
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