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【自分への質問】 本当に許したくないなら、なんでこの仕事を選んでいるのか

今回も、私自身のことを書いていきましょう。

「自分のことなんて知りたくない気持ちは誰にでもある」ということを受け入れるまで、ものすごく長い時間を使ってきました。そんな自分に笑ってしまう!

今の私は、衝突があったとしても裏表のない人との付き合いに快適さを感じるし、どう考えても私のことが気に入らないんだろうなという人に友達のふりをされると気持ち悪さを感じやすいです。「いや、だってあなた私のこと嫌いじゃん」て思うので、一緒にいたくないけど仲良さそうに一緒にいようよみたいなことをされると「え!なんでよ、嫌だよ」みたいに対応してしまい、その結果せっかく相手が必死に作っている抑圧による平和を崩したようなことになってしまい、私は攻撃的だったのかも・・・と居心地の悪さを感じたりします。

しかし、そんな自分を眺めると、そこにいると心地よくないのは私なのに人のせいにしているようにしか見えない。
という、気恥ずかしくて布団をかぶって隠れたくなるような発見をしたりします。偉そうな分だけ、もういたたまれない。なんだ一緒じゃん。

相手は相手の色んな歴史があった上でそれがいいって選んでいて、私はそういう付き合いを望んでいないから、適度な距離でいましょうかってだけでいい話なのです。

そんなあり方にも温かくありたかったのかもしれない

お仕事でも、「この人、自分自身の仕事にまるで興味も意欲もないのになんでWEBサイトとかチラシとか注文してくるんだろう」という人は何も珍しくありません。仕方なく注文してくるってなかなか失礼な人だなと思わなくはないのですが、そんなのザラにいるわけです。

しかし、人のその心を本当に許せないなら、私はこの仕事を10年以上もやっていないのでは?と、はたと思いました。どこか「自分が本当は何を思っているのか気づくのが怖い」という相手に対して、おおらかでありたいと願っているからこの仕事をやり続けているようにも思います。
おおらかというのはそれを肯定するというわけではなく、いつかはそこから出るということを含めて。

だって続けていたら、いつかは出会うから。
自分の仕事をいいと思えていなかったことにも、心底この仕事を始めて良かったと思うことにも。

呆然とする自分の周りに満ちているものを感じてみる

「自分のことなんて知りたくないままでいたい」という心に出会う時に、まだ私は快適さをそこまで感じられていません。耐えきれないような醜さを感じるし、救いようもなく感じるし、取り返しのつかなさ、全てを台無しにした絶望感を感じます。自分のことをもっとマシなものだと思いたかった。って号泣したりもしますが、凍り付くような気分だったりします。
自我は気がつくことを快適だと思えないので、自我を自分だと思っている分、それは喜びとかけ離れたものに見えてしまう。

人のせいにしないと「一緒にいて心地よい人は現状あなたではない」というだけのことを保てない。自分の求めるものに責任を持てない。恥ずかしくてたまらなくなります。自分の心がゆがんでいることを見つけることを、まだまだ、すんなりと喜べない。きっとまだまだまだ、ゆがんでいます。

たくさんのゆがみがまだまだあったとしても、現在地がここなのかと思えると「そして、これに対してどうあるか」に真摯になれるのかもなと今は思います。自分の醜さに気がついて呆然とするなら、今から少しでもマシな選択をしたいって自然に自分から出てくるから。

そうすると、エピソード自体が嫌なものではなくなり、自然に感謝に至り、何かが回復してくるような気がします。「ああ、ここで命拾いできたんだ」というような心持ちになったりします。

私自身が「自分は許されない」と思っている分、見つけることには抵抗が出ます。でもそれって、私を温かく育んで慈愛に満ちた接し方をしてくれた、たくさんのものへの拒絶でしかないかもなって思うのです。

私を含めて、どんな人の周りにも降り注いでいるものって「許されますように、許せますように、うまくいくといいね、幸せでいてね」っていうようなものだけなんじゃないかなと思っています。そこに対して、私は安心でいたい。いつか、ショックを受けたときに思い出してくれますようにっていう温かい接し方が沢山あったことにそういう時に気がついたりします。


もう少し丁寧に、そしてシンプルに書けそうなものだけれど、今の私はここまで。
この文章だって、後から見たらきっと色々なゆがみを見つけてしまうのだろうなと思うけれど、その時の私が、その中でも喜びを感じている部分を見つけられますように。

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